フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ブルックナー 交響曲第7番(1949.10.18Live)

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、1939年の論文の中で次のように書いている。

いや、この音楽の勝利は欠陥あってこそ、いっそう偉大となるかとさえ思われます。あの音の言葉の崇い虔しさ、奥深さ、浄らかさ、は、一たびそれを真に体験した人なら、もう決して忘れることはできないでしょう。彼の持つ欠陥さえ、もし人がブルックナーの作品の中に沈潜してみると、何かしら必然なものであり、何かそこになくてはならぬものであるかのように思われます。ブルックナーは全欧州の歴史の中でもきわめて稀にしか出現しない天才の中の一人です。彼に課された運命は、超自然的なものを現実化し、神的なものを奪いとって、我々人間的世界のなかへ持ちこみ、我々の世界に植えつけることでありました。魔神との戦いのなかにも、また至高の浄福を歌う響きの中にも、—この人の全思想と観念とは彼の内部の神的なるものに向って、彼の上に司宰する神々に向ってその深遠な情感をつくして捧げられています。
「アントン・ブルックナーについて」(1939)
フルトヴェングラー/芳賀檀訳「音と言葉」(新潮文庫)P168

手放しの賞讃がここにはある。
実際、ブルックナーの交響曲を指揮するときのフルトヴェングラーの方法は、色香に満ちた情動的なものであり、指揮者は作品に恍惚と没入しているだろうことが手に取るようにわかるものだ。ギリギリの線で理性を保ち、最小限の「揺れ」でもって、音楽を感動的に支える様は、神業とさえいえる。

・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ノヴァーク原典版)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1949.10.18Live)

フルトヴェングラーにしては動きの少ないブルックナーであり、彼の理想とする音楽の必然性が見事に説かれた、というより体現された名演奏だと思う。第1楽章アレグロ・モデラートは、テンポの多少の伸縮はあるが、どちらかというと暗い情念の漂う客観的な表現であり、また、最美の第2楽章アダージョは、情感豊かな、嘆きのブルックナーである。
同時期の、友人プレトーリウスに宛てた手紙。

ドイツはまさに、生きた音楽の国から、理論の国となってしまいました。全芸術界をおおう理論的思考は、さながら霜害のごとく、またうどん粉病のごときありさまです。私見によれば、この事態そのものが最大の不幸であって、主張されている理論の真偽は、いずれかといえば些末な問題とさえ思えるのです。もはや自分の態度を表明しようとする勇気を持たず、言葉を換えれば、自分自身の感覚を信用しなくなったということこそ、決定的に重要なのです。
(1949年10月11日付、エーミール・プレトーリウス宛)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P233

祖国ドイツの音楽界の惨憺たる状況を嘆く姿勢が、アントン・ブルックナーを通して表現される第2楽章アダージョの、絶世のコーダ。一方、鬼神が乗り移るかのような激しい第3楽章スケルツォから、終楽章の目を瞠る壮大な大宇宙の解放と、コーダの、突如として幕を落とされるような最後の瞬間がいかにもフルトヴェングラーらしい。

ブルックナーのような型の芸術家はその周囲の環境の世界の内部にあっては、まるで質の違う岩石か、より偉大な前世紀の追憶であるかのような作用を及ぼします。彼らは他の人たちほど同じ周囲の世界や歴史的な条件に縛られていないし、それに依存してもいません。またそういうところから演繹することもできないように思われます。
フルトヴェングラー/芳賀檀訳「音と言葉」(新潮文庫)P169

音楽に生命を吹き込むヴィルヘルム・フルトヴェングラー。
まさに孤高のアントン・ブルックナー。

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