自己中心的に陥っているかもしれない・・・

peter_gabriel_passion.jpg仕事をしていく上で、物事が軌道に乗り出すと誰しもそれを維持もしくは拡大しようと努力を続けることになる。この維持とか拡大が自然の流れに沿った妥当なものなら問題はないのだが、余計なエネルギーをかけることにより過度な負荷がかかり、それに関わる全ての人たちに悪影響を与えることになることが多々ある。関わる全ての人の中でもっとも危険なのが自分自身。人はことの中心にいると客観的にものをみて判断することが難しくなる。
毎月のセミナーを運営していく上でヘルプしていただく人間を確保するために、昨日もある知己の友人と話をしていて、言われたのが、「強引」、「調子良すぎる」というようなニュアンスの言葉。その瞬間はそんなつもりじゃないと弁解したものの、時間をおいて冷静になってみると、確かにそうだったかもしれないと反省した。物事を遂行していくためにはどんなことでも他人の協力が必要になる。だから誠意と謙虚な気持ちを持ってお願いすることが鉄則なのだが、相手との付き合いが長ければ長いほど甘えの感覚や馴れ合いの関係がどうしても先行してしまい、ついつい問題を引き起こしてしまうことになりかねない。

商売にせよボランティア活動にせよ、組織が大きくなればなるほど、たくさんの人間が関わるようになり、おそらく人間が本来もっている欲望がむくむくと頭をもたげるのか、その組織を拡大しようと無意識に人間は「我(エゴ)」を出してしまう。たとえそれがどんなに素晴らしいことをしていようとも「我」(エゴ)」が出てくると結果は後味の悪いものになる。とにかく「謙虚」に「自然」になることが重要なのだとあらためて認識した。世の中に必要なものならば余計な負荷をかけなくても前に進んでいくはずだし、不要なものならば消えていくということだ。結局は、自信をもってどっしりと構えることなんだと大きな気づきをいただけた。感謝である。

Peter Gabriel:Passion

神の子イエス・キリストも人間であった。衝撃的な解釈で上映当時物議を醸したマーティン・スコセッシ監督作の『最後の誘惑』。たとえ聖人だといわれるほどの人格者であったとしても、人間である以上完全ではない。それはイエスであろうと同じこと。
Peter Gabrielが新作を発表したということから喜び勇んで購入したこの新譜を聴いたとき、衝撃が走った。このアルバム、僕の周りのGabrielファンの間では賛否両論であった。ほぼVocal抜きのインストゥルメンタル・アルバム。「So」までの延長線上を期待していたロック・ファンは肩透かしをくらったのか多くが否定的な見解を示した。
しかし、もともとインスト好きであった僕にとってはこれ以上ない宝であり、さすがはGabrielと唸らせる完成度の高さで、以降愛聴盤になった。単なる映画のサウンド・トラックと侮るなかれ。これほど人間の心に訴えかけてくるロック音楽は決して多くない。いまだに色褪せないところがより素晴らしい。

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