フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ベートーヴェン 「レオノーレ」序曲第2番(1954.4録音)ほか

「レオノーレ」にまつわる妄想。

第一念とは、思考に入る前の、形のない、初めの発露のことを指すのだが、それを捉えるのは実に難しい。言葉が生まれた瞬間にそれは思考の殻に閉ざされてしまうから。
その意味で芸術は、そこに形があるだけですでに第一念とは言えないのだけれど、限りなく初めに近いインスピレーションに基づくものが創造者の意図を汲む、最良の創造物なのだと想定したときに、他人の解釈の入らない、評価に左右されないものこそが、最も正しい、最も享受する価値のあるものだといえるだろう。

ベートーヴェンは、ジャン・ニコラス・ブイイ原作の「レオノーレ」にインスピレーションを得て、3幕のオペラを書いたが、様々な外的要因が重なり、不幸にも公衆から受け入れられず、幾度もの改訂作業を経て、結局2幕の「フィデリオ」として落ち着くことになり、後世に残されることになった。

ベートーヴェンの、創造者としての意図を最大限に汲んでいるのはやはり「レオノーレ」第1稿であることは間違いなく、先般リリースされたルネ・ヤーコプスによる新しい録音を聴くにつけ、何と素晴らしい作品であるかを、そして、それでこそベートーヴェンの本性が求めた至高の傑作であり、また世界が必要とする作品であるかを思い知らされる(この録音についてはもうしばらく堪能した上で別途書こうと思う)。

魂は永遠不滅であり、時空を超え、自由自在だ。
一方、この身があるために、人間は窮屈な思いをしてきたし、これからもするのだろう。それは、三次元でのこの体験を借りて学ばなければならないことがあるからだ。

「フィデリオ」ではなく「レオノーレ」でこそ味わえることがある。わかることがある。
フロレスタンの投獄は、文字通り我が身の窮屈さの暗喩であり、救出に向かうフィデリオ、すなわちレオノーレは救世主たる大いなる力、目には見えない偉大なる力を指すことは明らかだ。そして、大いなる力とは女性性に統べられる某であることは間違いない。

激烈なフルトヴェングラーのベートーヴェンが美しいのは、そこに女性的な、陰の力が宿るからだ。あの曲線的な、伸縮自在の音楽は、女性性からの発露以外の何ものでもないだろう。

モーツァルト:セレナードト長調K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(1949.4.1録音)
ベートーヴェン:
・「コリオラン」序曲作品62(1947.11.25録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
・「レオノーレ」序曲第2番作品72
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.4.4&5録音)
・「レオノーレ」序曲第3番作品72a(1953.10.16録音)
・「フィデリオ」序曲作品72b(1953.10.13録音)
シューベルト:「ロザムンデ」序曲D797(1951.1.17録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

フルトヴェングラーによる、何より「レオノーレ」序曲第2番の、壮絶ながら、重みのある、デモーニッシュな表現に舌を巻く。亡くなる7ヶ月前の録音とは思えない生命力こそ鍵であり、歌劇「レオノーレ」に賭けたベートーヴェンの本懐が見事にここにこそ体現されるのだ。

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