「落梅集」から「千曲川旅情の歌」。
青春の日の抒情と詠嘆が歌われるというが、この句に迫る懐古はどれほどのものか。
小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす繁縷は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾の岡辺
日に溶けて淡雪流る
あたゝかき光はあれど
野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色はつかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ
暮れ行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む
~「藤村詩集」(新潮文庫)P181-182
大自然への畏怖と、一方自らの心の内の交々を浪漫の歌に乗せる業。
島崎藤村の天才だろう。
同じ北欧の作曲家であるシベリウスやニールセンには強烈な個性が見られるのに対して、グリーグの音楽には不思議にそれがない。余計なカドがないのである。(あくまで個人的な見解だが)純粋な懐かしさというのか、ノルウェーを訪問したこともないのに郷愁というか、胸を締めつけられるほどの、初恋にも似た感情が湧き上がる純白の音楽。嗚呼。
弦楽器の美しさに呆然。
同質の楽器が絡むアンサンブルには、言葉に表し難い官能が纏わるようだ。
そもそもグリーグは、ピアノ曲として発表した作品を、後に弦楽オーケストラ用に編曲しているのである(作品63を除く)。これぞ神との対話!!
最晩年のエドヴァルド・グリーグがアーサー・M・エーブルに語った言葉。
私は、ブラームスが直観的かつ意識的に行ったことを、ただ直観的にのみ行った。私は霊に働きかけられると作曲した。自分が宇宙の大法則と一緒に動いていることを明白に理解しないまま。だがブラームスは、ベートーヴェンとまったく同じように、自分が全能の力に支えられていることに気づいていた。それほどの高みにまで達することができるのは、卓越した創造力を持つ天才だけだ。
~アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P249
「意識的に使う」ことの重要性。
大宇宙の法則を意識的に使うことができたときに傑作が生まれる。
天才だけに限るまい。全知全能はすべての人間に与えられていることを考えるなら、誰もが「傑作」の創造者になり得るのだと僕は思い至る。
藤村の詩に心委ね、ネーメ・ヤルヴィの棒に感無量。