グァルネリ四重奏団 ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第3番ほか(1991録音)

作品を生み出すことが生活の糧の創出であることは、音楽家にとって今も昔も変わらない。貴族の後援を得たベートーヴェンにあっても同様。もちろん彼の才能こそがすべてではあったが。

(フランツ・ヨーゼフ・ロプコヴィッツ侯)はリヒノフスキー侯の次にベートーヴェンの主要パトロンとなった人物で、また作品献呈数はルドルフ大公に次ぐ8点である。“連携騎士団”のメンバーで、1812年の音楽愛好家協会設立にあたっては中心的役割を演じた。ベートーヴェンにとって、女弟子を除いて、作品を献げる初めての年下のパトロンである。
大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築1」(春秋社)P239

ハイドンやモーツァルトの影響下に、自身の個性を刷り込んだ初期作品群は、保守的な響きの中に楽聖らしい(人後に落ちない)「革新」が垣間見える傑作たちだ。

ベートーヴェン:
・弦楽四重奏曲第1番ヘ長調作品18-1
・弦楽四重奏曲第2番ト長調作品18-2
・弦楽四重奏曲第3番ニ長調作品18-3
グァルネリ四重奏団
アーノルド・シュタインハルト(第1ヴァイオリン)
ジョン・ダレイ(第2ヴァイオリン)
マイケル・トゥリー(ヴィオラ)
デヴィッド・ソイヤー(チェロ)(1987.4-1991.11録音)

ベートーヴェン最初の6つの弦楽四重奏曲は、ロプコヴィッツ侯に献呈された。侯は、ウィーンに出てきたベートーヴェンの最初の住まいを提供するなど、真っ先に後援した貴族で、ベートーヴェンの信頼篤かった人物だが、侯に捧げられた作品の音調はどれもが柔和な、ベートーヴェンの感謝の念が刻印される安定したものだ。しかし、実際のところ、作曲当時のベートーヴェンは耳の疾患に悩まされ始めた頃で、人生に絶望し、決して平静ではいられなかったはず。

(弦楽四重奏曲作曲&出版)当時、ロプコヴィッツ侯のところでカロリーネ夫人の読書係をしていたアメンダに宛て、ベートーヴェンは次のように書いているのだ。

どんなに幾度も君が私のそばにと願ったことか。というのは君のベートーヴェンは不幸せに生きています。自然および創造主と闘いながら、すでに何度も私は創造主を呪いました。創造主はその創造物をほんの成り行きに晒し、そうしてたびたび最も美しい開花がそれによって無に帰せしめられ踏みつぶされるのです。わかってください、私にとって最も大事な部分、私の聴覚がひじょうに衰退してきたのです。君が私のところに居た当時すでに、私はそのことについて徴候を感じていまして、私はそれを黙っていたのです。いまやそれはますますひどくなり、再び治るのかどうか。期待するほかありません。
(1800年7月1日付、アメンダ宛)
大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P451

後世の僕たちはベートーヴェンの難聴が治ることはないことを知っているが、30歳のベートーヴェンは深層でどれほどの恐怖と不安と闘っていたことか。そんな事実を忘れてしまうほど、創造物は明らかに美しい。

ベートーヴェンの当時の心境を隠すかのようなグァルネリ四重奏団の生み出す明朗な音調に対し、音楽の深層に垣間見える苦悩。いや、それは生きることへの期待と言ってもいいのかもしれない。僕は特に第3番ニ長調に惹かれる。

人気ブログランキング


3 COMMENTS

桜成 裕子

好感を持っているグァルネリ・カルテットが出て来たので、勇んでおじゃましています。が、今までラズモフスキー・セットや後期の四重奏曲に気を取られて、作品18の6曲を身を入れて聴いていなかったことに気がつきました。3番、いいですね! 優美さや品の良さにモーツアルト的な雰囲気も感じますが、絶対にモーツアルトではない個性があり、青年ベートーヴェンの洋々たる未来への希望が溢れていると言いたいところですが、実際は不安と絶望に苛まれる時期だったのですね。ベートーヴェンの作品はあまり作曲時の心境を反映するものではない、と言えるのでしょうか?
 ところでウィーンに出てきたベートーヴェンに最初の宿の世話をしたのは、リヒノフスキー候ではないでしょうか。「1792・11.10 ウィーン着か、アルザーガッセ45、4階建てビルの屋根裏部屋に落ち着く ※同ビル(当時の所有者名義人はヴォルスハイム男)にリヒノフスキー候居住。すぐに同じビルの地階に転居(家賃14グルデン)  1794 10月以前? アルザーガッセ45(リヒノフスキー・ビル)地階から候の居住する1階に移り客人となる  ※「客人」とは「家賃支払いなし」と解することもでき、居住空間の移動を必ずしも意味しないのではないか?   」(大崎慈生 「ベートーヴェン完全詳細年譜」P62、P80)とありますが・・・?

返信する
岡本 浩和

>桜成 裕子 様

ベートーヴェンは、後の交響曲第5番&第6番のように、ともすると性格の異なる2種の作品を同時に作曲しました。世界が表裏一体、陰陽二元であり、(意識的なのか無意識なのか)それらがセットで0(ゼロ)即ち調和であることがわかっていたのかもしれないと思うのです。その意味では、作曲中の心中が「陰」であれば、あえて「陽」の音調を世に問い、その逆もまた真ということで、心中が「陽」であれば、「陰」の面影の作品を創造した可能性があるのかなと、僕は勝手に想像しています)(半ば妄想ですので、半分に理解してください、笑)。

ちなみに、ご指摘の通り、僕の記述ミスで、最初の宿を世話したのはリヒノフスキー侯ですね。
ありがとうございます。

返信する
桜成 裕子

岡本 浩和 様

 深遠なご意見をありがとうございます。
次元が違うと思いますが、太宰治の「絶望すればするほどふるまいは陽気になる」とか、「右大臣実朝」の言葉「明るさは滅びの姿であらふか?」等がチラと思い出されました。

 

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください