Brad Mehldau 10 Years Solo Live (2015)

ベートーヴェンはピアノの名手だった。というより、1792年にウィーン定住をスタートした彼は、最初はピアニストとして名声を得たのであり、その後、耳疾の悪化に伴い作曲家としての仕事の比重が大きくなった。青年ベートーヴェンは、そもそもピアニスト作曲家だったということだ。実際、1800年4月2日のブルク劇場を借り切ってのコンサートでは、交響曲第1番やピアノ協奏曲第1番(?)の初演のほかに、自身のピアノ即興演奏がプログラムに組み込まれていた(果たしてその演奏はどれほどのものだったのだろう?)。

セットに付されるブックレットの表紙を見て、僕はベートーヴェンかと目を疑った。
大自然の、木々をバックに静かに佇み、瞑想するブラッド・メルドーの表情は、まるでベートーヴェンのようだ。

昨年の来日公演でのソロ・コンサートは見事だった。彼の即興演奏を聴いて、僕はメルドーこそがベートーヴェンの生まれ変わりではないのかとさえ思った。そして、様々な会場でのライヴ録音によるピアノ演奏を聴いて、僕はますますその思いを強めた。

世界の闇と光は、不安と希望。DARK/LIGHTと題する1枚目は、文字通り二元世界の表象の如し。メルドーの選曲は、その闇と光の対比を楽曲に寄せて弾けるもの。

ジェフ・バックリーによる”Dream Brother”は、ブダペストはリスト音楽院でのライヴ演奏(2013年11月5日)。ここにあるト短調の陰のエネルギーは、どうやら続くレノン/マッカートニーによるト長調の”Blackbird”(2011年9月18日、ジローナ)の陽のパワーと対を成しているらしい。音楽はそれぞれの音調を各々明暗纏いながら、ある地点で陰陽を超える(絶品のピアニズム!)。この2曲を聴くだけでもメルドーの天才を僕は思う。
そして、ラジオヘッドの(官能と恐怖が渦巻く)”Jigsaw Falling into Place”(2011年9月17日、ライプツィヒ)での12分近くに及ぶパラフレーズは、メルドーの真骨頂。それこそ音楽は身体をすり抜け、心をも超越し、天へと届く光のようだ。

・Brad Mehldau:10 Years Solo Live (2015)

Personnel
Brad Mehldau (piano)

自作”Meditation I– Lord Watch Over Me”(2014年3月10日、ブリュッセル)は、「信仰」の音楽的表現だとメルドーは語る。メルドーはまた信仰は、実行に移したときにこそ現実になるとも言う。おそらく彼の表現は、信仰を喪くした者への大きな贈物だ。そして、極めつけは、(16分に及ぶ)レノン/マッカートニーの”And I Love Her”(2013年11月8日、ヴヴェイ)。どうにも哀しみの音調がメルドーの10本の指によって奏でられる様に、僕は否が応でも恍惚となる(否、胸を締めつけられる思い)。ここでは、陰陽が一つの楽曲の中でより直接的に相互作用を起こし始めるのだとメルドーが言うのだから興味深い。
さらに、“My Favorite Things”(2010年3月16日、ルクセンブルク)は、メルドーの賞讃するガブリエル・フォーレの方法(半音階の多用と目まぐるしくも美しい転調の多用)と、愛聴するプロコフィエフの第2協奏曲ト短調第1楽章のカデンツァからインスパイアされた、彼自身がコンサートのクライマックスだったと証言する、即興演奏の極み。
最後のボビー・ティモンズの”This Here”(2010年3月16日、ルクセンブルク)において、僕たちは暗闇からついに光明へと解放されるのだと、またメルドーは言う。ブルース・ジャズの何という癒し。

ベートーヴェンは宗教を、人間の存在(Sein)のより深い奥底への接近としてだけではなく、精神生活のための実際上の手引きであるとみなしていた、と推測される。
自然についてベートーヴェン自身が書いた感動的な詩を紹介する。この詩は、彼がウイーンの森に近いデープリングに居た時、暮れゆく晩秋を惜しんで、そこからウイーンの森を通り抜けて頂上のカーレンベルクまで登り、ウイーンの森を眺め街を見下ろしながら書いたものと推測される。

藤田俊之著「ベートーヴェンが読んだ本」(幻冬舎)P300

ちなみに、散歩しながら五線紙に書き留められた詩は以下の通り。

森の中の全能者よ
私は至福である
森の中にいて幸せである
どの木もが
あなたをとおして話しかける
おお神よ 何たる素晴らしさ
このような森の地帯で
丘の上には
安らかさがある―
彼につかえる安らかさが―

~同上書P301

まるでメルドーが心静かに語りかける詩のようだ。

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