ジャン=ベルナール・ポミエの演奏の特長は、強靭な打鍵から想像以上のイマジネーションが湧き出るところだろうか。かれこれ40年ほど前、初めて彼の演奏を聴いたとき、どちらかというと、女性的で柔和な印象を持ったのだが、それから数十年を経て、あらためて彼のベートーヴェンに触れたとき、とても男性的で、またとても繊細ながら骨太の表現に僕は驚いた。それは、彼の表現が変わったせいではなく、僕の感覚が間違いなく変わったせいなのだろうと思う。
ベートーヴェンは、とても想像的だ。
特に、彼が「標題」を付すとき、そこには深遠な心象風景が覚醒する。
生命力溢れる燃えるような気質に生まれ、社交の楽しみにも積極的であったのに、私は早くに引きこもって孤独に私の人生を送らなければならず、ときに自分をなんとか少し外へ出そうとしても、何とも厳しく、私の悪しき聴覚がための二重の悲惨な経験によって私は突き返された。
(1802年10月6日)
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P501
耐えられないほどの苦悩が彼を襲うが、結局、ベートーヴェンは芸術の昇華こそが自身の役目だと悟り、精神の問題を乗り越えた。
それだけが、芸術が、それが私を引き戻した、ああ、私が課せられていると感じるすべてのものを生み出すまで、それ以前に世を去ることは私にはできないと考えた。そして私はこの哀れな人生を、続けた、
~同上書P503
自らを殺めるという最悪の業を断ち切り、彼は役割を全うした。喝采だ。お蔭で後世の僕たちは、ベートーヴェンの大いなる芸術を謳歌し、享受することができるのだ。この頃、彼が作曲していたのが作品31の3つのピアノ・ソナタ。
ポミエの弾くソナタ第16番ト長調作品31-1。明朗で力強い第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェを耳にして、僕はベートーヴェンの「目覚め」を感じた。また、第2楽章アダージョ・グラツィオーソを聴いて、僕はハイリゲンシュタットの自然を散策し、未来への希望を見つめるベートーヴェンを感じた。そして、終楽章ロンド(アレグレット)を聴いて、ベートーヴェンの芸術家としての人生を全うするという強い意志を思った。
同時に、ソナタニ長調「田園」の優美さ。ポミエの自然体。ことに第1楽章アレグロが美しい。そして、第2楽章アンダンテにかすかに感じられる哀感こそがベートーヴェンの真実だ。
自然を創造した神に対するベートーヴェンの感謝の念は一入であった。リーツラーはベートーヴェンの自然愛について書いている。「田舎の自然の中に居るときほど、彼の創造的な想像力が、豊かに、自由に、働いたことはなかった。・・・自然に対する彼の情熱的な愛は、彼にあっては、多くの同時代者の場合のような感傷的なものではなくて、全く男性的創造的なものだった」。英国人の音楽家兼ピアニストのC.ニート(1784-1877)も、著名なベートーヴェンの生涯・作品研究家であるA.W.セイヤーに対して次のように語っている。「ベートーヴェンほど、自然を享受し、花や雲やすべてのものに喜びを感じている人に出会ったことはありません。自然は彼にとっては食べ物のようなもので、文字通りそのなかで生きているように思えた」。
~藤田俊之著「ベートーヴェンが読んだ本」(幻冬舎)P300
こういう証言を目にするたびに、僕はベートーヴェンの本性の真実を思う。
彼の芸術は永遠だ。
おじゃまします。このCDを聴いてみました。新鮮でした。今まで「月光」や「田園」の演奏を聴いたことがない人が楽譜を前にして自分の感性だけで弾いたらこうなった、というような、純真無垢な演奏に感じられました。
ベートーヴェンにとって自然の中に居ることは作曲活動に必要不可欠だと、本人が言っていることは知っていましたが、このニート氏の証言は強烈ですね。ベートーヴェンはハイリゲンシュタットの自然の懐の中だったからこそ、都会の社交界での自分の苦しみを見つめ、神と対峙し、遺書の中で総括して新しく生まれ変わることができたのですね。
>桜成 裕子 様
ハイリゲンシュタットに籠っていた時期に生まれた作品群をまとめて聴いてみると、内面の苦悩とは裏腹に実に自然と一体となった陽気さというか希望というか、そういうものが感じられることが興味深いですね。ここからいわゆる「傑作の森」が始まったのだろうと思います。