
オペラの台本というものは、もともと支離滅裂なものだと一般には考えられているが、《魔笛》の台本は、その中でも最も辻褄の合わないものの典型であるといわれてきた。もともとシカネーダーが作ろうとしたのは、よくあるお伽話の筋書きであった。良い妖精と悪い魔法使いが出てきて、恋人たちは困難な目に会いながらも、魔法の楽器の力のおかげで、最後にはしあわせに結ばれる、といったようなものである。ところは便宜的に“東洋”としておこう。
~エドワード・J・デント/石井宏・春日秀道訳「モーツァルトのオペラ」(草思社)P256
「魔笛」は初演当初から随分誤解のあったオペラだと思う。専門家の中においても、その台本の支離滅裂さ加減は長らく議論の的になってきた。
立場や視点が変われば常識は変わり、世界は一変するのだということを今や忘れてはならない。そして、人間の持つ無意識の能力の、いわば慧眼、慈眼というものを見落としてはならない。
モーツァルトにあって、あるいはシカネーダーにあって、彼らの意識では単にメルヘン・オペラを、それもフリーメイスン的な要素を秘めたオペラを書こうとすることにあったとしても、形而上においては、無意識下にあっては、彼らは天と間違いなく通じていて、未来の悟り人にメッセージを託さんと書かされたのだろうと僕には思われる。
タミーノが日本の狩の衣服を纏っているのも偶然ではないだろう。まして、「日本の狩の衣服」としたのは、適当に、便宜的にというのは大間違いだ。日出ずる国の覚醒の瞬間を天に暗に書かされたのだといっても言い過ぎではない。それは、21世紀の、弥勒の世の到来を待ってこそ意味、意義があったのだと思う。
「私は法がほしいのです、袈裟はいりません」という。私は嶺上で、ただちに彼に正法を伝えた恵明は法を聞くや、言下に心が開けて悟ることができた。六祖が恵明に言うに、「善も思わず、悪も思わないというちょうどそのとき、どのようなのがあなたの本当の姿なのか」と。恵明は無始の迷妄を破り悟りに達した。
~中川孝「六祖壇経」(タチバナ教養文庫)P68
シカネーダーが、あるいはモーツァルトが当時「六祖法宝壇経」を知っていたのかどうかはわからない(知るはずはないとは思うのだが)。あるいは、フリーメイスンがその思想の根本に六祖慧能の説法の影響を受けていたのかどうなのか。その点についても今の僕は無知だ。
しかしながら、慧能の言う「不思善、不思悪」にこそ「魔笛」の原点があるように僕には思われてならない。
僕の中ではいまだこの音盤に優るものはない。フリッツ・ヴンダーリヒのタミーノ、フィッシャー=ディースカウのパパゲーノ、ロベルタ・ペータースの夜の女王など、独唱者の布陣ももちろんのこと、カール・ベームの生み出す荘厳で透明な音楽が時間と空間を超え、心に迫る。
人間の記憶などと言うのは曖昧で、当てにならない。それに一旦刷り込まれると、その記憶が消去されるのに甚大な努力と労力(?)が要る。いや、実際には消去など不可能かもしれない。その意味では、音楽以外のところに惹かれているのだといっても過言ではない。
僕が「魔笛」の真価をとらえたのは、それこそ「六祖壇経」や「無門関」に出会ってからだ。ベートーヴェンの「フィデリオ」についても然り。ならば、その昔、西洋的二元論を超えた東洋思想の箴言は、天才たちに多大な影響を与えたのか。何よりザラストロと合唱が繰り出すフィナーレの最終シーンは皆大歓喜の世界。