ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」ほか(1979.5.21Live)

僕の人生の痛恨事の一つが、エフゲニー・ムラヴィンスキーの実演を聴くことができなかったことだとは、いつかも書いたと記憶する。日本では4度の機会があったそのチャンスをものにされた方の体験談を聞く、あるいは読むたびに僕は地団太を踏んできた。

1979年の日本ツアーに、健康問題は妨げとならなかった。16のコンサートのうち7回をムラヴィンスキーが振り、残りをヤンソンス一族のアルヴィドが指揮した。今までと同じように、古典派の音楽は聴衆を魅了した。天羽健三は「私がムラヴィンスキーのコンサートを聴けたのは、彼の最後の来日となった1979年だった。プログラムのメインはベートーヴェンの《田園》だった。後に、ムラヴィンスキー夫人(アレクサンドラ・ヴァヴィーリナ)は、コンサート終了後にこの指揮者が『東京で最上の《田園》が演奏できた』と打ち明けたことを語ってくれた。この夜のことは忘れることができない。彼の指揮姿は創り出す音楽と同様に力強くかつ優雅だった」。
グレゴール・タシー著/天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」(アルファベータ) P314

ムラヴィンスキー研究家の天羽さんの感想に僕は震えた。そして、実際にこのときの「田園」を二度も聴かれた内科医である西岡昌紀さんの言葉にも同じく僕は羨望を覚えた。

ムラヴィンスキーの最後の来日となった1979年の公演のさい、私は二度、彼の「田園」を聴いた。最初は5月21日に東京文化会館で、二度目は6月5日に横浜県民ホールにおいてであった。
最初の東京文化会館の演奏会でこの曲の演奏が始まったときのことを、私はいまもよく覚えている。ムラヴィンスキーが上手から現われ、拍手を浴びると、オーケストラはベートーヴェンの第6交響曲(「田園」)の冒頭を奏で始めた。そして弦が、あの到着のさいの孤独な旋律を静かに奏でたとき、私は自分がいま恐ろしく非凡な演奏を聴いていることに気がついたのだった。
それは、私がそれまでに聴いたどの「田園」とも違っていた。ベーム指揮のウィーン・フィルによる「田園」などとは、まるで違うものであった。ベームとウィーン・フィルが演奏する「田園」にはこんな孤独な感情はない。まったくないと言ってよい。この第1楽章には、「田舎に着いたときの愉快な気持ち」という副題が付けられているが、ベームとウィーン・フィルの演奏などは、定めしこの副題どおりの音楽である。しかし、ムラヴィンスキーの「田園」は、それとは対極にある音楽であった。ムラヴィンスキーは、ベートーヴェンがこの第1楽章に付けた副題を額面どおりに受け取っていない。「田舎に着いたときの愉快な気持ち」などではなくて、誰もいない森の小径を歩く孤独な来訪者の後ろ姿のような音楽。—それがムラヴィンスキーの「田園」であった。

西岡昌紀著「ムラヴィンスキー―楽屋の素顔」(リベルタ出版)P154-155

喜びが、外に向かった開放的なものではなく、むしろ内なる光を照らすものなのだと知っていただろうムラヴィンスキーの解釈は、音楽の神髄を見抜いたものだ。この第1楽章の標題は、自筆譜では「田園の到着の際、人間にわき起こる心地よい、陽気な気分」とあるようだが、もしベートーヴェンがムラヴィンスキーの「田園」を聴いたなら、おそらく快哉を叫んでいたのではなかろうか。

当時、ムラヴィンスキーの国外でのコンサートのレコーディングをソ連政府は許さなかったといわれる。それゆえに正規の録音は残されていないと思われていたのが、いわゆる海賊的にテープ録音されており、いつぞや正式にリリースされたのを聴いたものの、残念ながらそこには(西岡さんの言う)「孤独な感情」までは収録し切れていなかった。録音の限界というものをつくづく感じたものである。

ベートーヴェン:
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
ワーグナー:
・楽劇「トリスタンとイゾルデ」~第1幕前奏曲とイゾルデの愛の死
・楽劇「ジークフリート」~森のささやき
・楽劇「ワルキューレ」~ワルキューレの騎行
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1979.5.21Live)

久しぶりに聴いたムラヴィンスキーの(東京文化会館での)「田園」の印象は、随分違って聴こえた。第1楽章冒頭、例の主題が奏でられる瞬間の、音響装置ではほとんど聴き取れないほどの弱音で演奏される音楽に、僕は鳥肌が立った。確かにそこには「孤独な感情」があった。
ムラヴィンスキーの解釈はいつもさりげない。しかし、そこには赤裸々な、決して媚びない、剥き出しの作品の真価がある。だから、どんなときも聴衆に異様な感動を与えるのだと思う。白眉は終楽章「牧人の歌―嵐の後の、快い、神への感謝と結びついた感情」。標題通りの感謝の念をうねる弦が、そして、咆哮する金管が見事に音楽の深層を表現する様子に、ベートーヴェンの音楽の素晴らしさを思い、ムラヴィンスキーの演奏の凄みにあらためて欣喜雀躍する(終楽章コーダの寂寥感!そして孤独感!)。
ワーグナーの「トリスタン」から前奏曲と愛の死がまた素晴らしい。

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8 COMMENTS

安倍賢一

ベームとムラヴィンスキーの両公演とも聴いた者として率直な感想を申し上げますと、ムラヴィンの時はオケの音色のあまりの魅力の無さに愕然とした記憶があります。少なくとも実演で聴く限り、田園でのウィーンフィルの陶酔的サウンド(特に第二楽章!)は指揮者の音楽性を超えて「そうあるべきもの」と強く感じました。
私が田園に孤独な魂の逍遥を求めるなら、クーベリック指揮のパリ管のDGG盤です。

当日のワーグナーも音はデカいが、モノトーンで
辟易としたことだけ覚えています。
やっぱりロシアもののプロにすれば良かったと後悔
しました。
当時17歳なので、未熟と言われればそれまでですが。

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岡本 浩和

>安倍賢一 様

コメントをありがとうございます。ベームの77年の来日公演、そして、ムラヴィンスキーの79年の来日公演の両方を聴かれたこと、羨ましい限りです。

ムラヴィンスキーの実演については、巷には手放しの賛同の評ばかりですが、「否」の意見をうかがうことができたことがとても貴重で、大変ありがたく存じます。
ベームの「田園」も、実演は本当に素晴らしかったのでしょうね!!

クーベリック指揮パリ管の「田園」は未聴ですので、聴いてみます。
ありがとうございます。

>当時17歳なので、未熟と言われればそれまでですが。

若年の感性とセンスにこそ真実があると僕は思います。

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安倍賢一

岡本様

ご返信頂きありがとうございました。
突然の投稿、失礼をお許しください。

フリッチャイ=BPOの第九が大好きでネットでうろうろしておりましたら、
貴ブログの記事に辿り着き、我が意を得たりと思いそれから拝読させていただいております。

私には巷の評判は関係なく、自分が本当に感動した演奏が生きる糧になります。

仰る通りムラヴィンスキー=レニングラード・フィルの来日公演については、宇野功芳氏の
影響もあってか神格化されていましたが、その明滅に欠ける暗くて重たい音はドイツ・オーストリア音楽には向かないのではと思いました。1979年5月21日東京文化会館 1階28列24番で聴きましたが、CDで聴く
とオケのバランスは無茶苦茶ですね。(隠し録りのせい?)

私の場合は実演ですと指揮者の解釈より、まず目の前で音を出しているオケを強く感じますので
77年のショルティ=シカゴ響のマラ5や79年のカラヤン=BPOのマラ6もひたすら豪壮な音響に浸っていた感があります。
86年のクライバー=バイエルン国立管もオケは良くなかったです。(81年スカラ座のオテロは凄かったですが。)

オケの素晴らしい響きと作品の核心に迫ることを両立させた演奏会に立ち会えると幸せを感じますが、
これまで聴いた名指揮者のコンサートで音響内容とも素晴らしいと思ったのは、77年のNHKホールでのベーム=VPOのベートーヴェン、ブラームス、82年東京文化会館でのジュリーニ =LAPOのブルックナー第7と90年のサントリーホールでのチェリビダッケ=MPOのブルックナーチクルス(4、7、8)です。

好き勝手申し上げました、ご放念下さい。

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岡本 浩和

>安倍賢一 様

そうでしたか!
最近はもはや音楽とはかけ離れた(?)、哲学的、精神的な側面にフォーカスした内容になっていて、音楽そのものをより追究したいという方には物足りなく、否、小難しく(?)なっていると思いますが、お読みいただきありがとうございます。

ムラヴィンスキーの来日公演の録音のバランスは滅茶苦茶ですね。せめてもう少し真面な録音で聴きたかったですが、致し方なしです。それにしても実演を聴かれての印象、いやはやです。
物事は何にせよ100%是ということはなく、安部様のようなご意見を待っておりました。
ありがとうございます。

ちなみに、僕も86年のカルロス・クライバーは人見記念講堂で聴いておりますが、カルロスの実演に触れられたという感動で持ちきりで、オケの状態の可否までは判断できませんでした(当時僕は22歳です)。

>77年のNHKホールでのベーム=VPOのベートーヴェン、ブラームス、82年東京文化会館でのジュリーニ =LAPOのブルックナー第7と90年のサントリーホールでのチェリビダッケ=MPOのブルックナーチクルス(4、7、8)

どれもが伝説の名演奏と言われるものですね。
残念ながら僕はどれも味わえておりません。少なくともチェリビダッケは聴くチャンスはありましたが、当時は他のことに興味が移っていて、外してしまいました(地団太・・・)。
引き続きよろしくお願いします。

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安倍賢一

岡本 浩和様

貴殿も86年のバイエルンお聴きになりましたか!
私が聴いた日はブラ2がメインのプロでしたが、
弦楽器が粗っぽくて、
ウィーンフィルならどれだけ良かったかと
帰り道に悶々とした事を覚えております。

その後のウィーンフィルとのブラ4も
キャンセルされ、とうとうこのコンビは
聴けなかったのが心残りです。

チェリビダッケ は80年のLSO、90年のミュンヘン•フィルとも豊かな倍音の上に絶美な音色が乗り、
オーケストラとはこんなに美しい音を出せるのか
と腰を抜かしました。

あの音をまた聴けたらと思います。

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岡本 浩和

>安倍賢一 様

はい、同じく僕も92年のウィーン・フィルとの来日公演は参戦する予定でした。
直前のキャンセルに愕然としたことを今でもはっきりと覚えております。

チェリビダッケの実演は羨ましい限りです。

返信する
桜成 裕子

おじゃまします。このCDの「田園」を聴いてみました。
ムラヴィンスキーという有名な指揮者がいることは、昔から知ってはいましたが、今まで聴いてみたことはありませんでした。この「田園」の録音を聴いた拙い印象を書かせていただきたいと思います。今までいろいろな「田園」の演奏を聴き比べてなんのかんの言っていましたが、この演奏に比べると、それらにあまり大きな差はなかったのでは?と思いました。それは、本ブログに書かれているベートーヴェンが自分で書いた第一楽章の表題の影響があるかもしれません。今までは第一楽章の表題は「田舎に着いた時の(ベートーヴェンの)愉快な気持ち」だと思っていたのですが、ベートーヴェンが自分で書いた題は「人間にわき起こる心地よい、陽気な気分」で、より普遍的で抽象的な意味を持っていることを知りました。
今まで、どの「田園」を聴いても、のどかで広々としたウィーン郊外と思しき光景が頭の中に繰り広げられていたのですが、ムラヴィンスキー・レニングラードの演奏では、光景ではなく「気持ち、気分」が迫ってきました。力強く、か細く、強靭で撓うような弦の音が雄弁に主題を浮き上がらせているからかもしれません。これから大自然の中で都会の人間関係に煩わされず、思う存分自然と対話しながら独りで過ごせると思うと嬉しさが抑えきれず、わくわくしている、といったような気持ちが伝わってきました。絶対音楽感がより強く感じられました。第2楽章の川は流麗に滔々と流れ、田園は雄大に広がり、そのイメージはロシアの大地です。第3・4共にスケールの大きさを感じました。オーケストラは素晴らしく統制がとれていて指揮者の意のままに自在に展開している感があり、ムラヴィンスキーが会心のできであったと言っているのも、さもありなんと思いました。
 初めてムラヴィンスキーを聴くことができ、また一味ちがった観点で「田園」を聴くことができて感謝します。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

ムラヴィンスキーのベートーヴェンはいずれも必聴の名盤揃いなのでお勧めします。

>ムラヴィンスキー・レニングラードの演奏では、光景ではなく「気持ち、気分」が迫ってきました。

はい、その通りだと思います。さすがです。まさにこういうところがムラヴィンスキーの天才の成せる業なのだと思うのです。

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