すべてロンドンで作曲された最初の《ザロモン・セット》の中で、最後に書かれたと推測される交響曲第97番ハ長調。(おそらく)1792年5月4日の第10回目となるザロモン演奏会で初演された。
ハイドンがロンドンを去った日がいつであるか、正確な記録は残っていない。6月13日付のハイドンの手紙に「今月の終りにロンドンを発つ予定です」とあるのからみて、おそらく1792年6月末ではまかったと思われる。帰途はフランクフルト、ボンを経てウィーンにむかった。ボンではベートーヴェンに会って、22歳のベートーヴェンを激励している。ベートーヴェンは、この年の11月ウィーンに来てハイドンに師事するようになった。
(岩井宏之)
~作曲家別名曲解説ライブラリー26「ハイドン」(音楽之友社)P108
ハイドンの訪問を受け、ベートーヴェンは自信作「皇帝ヨーゼフⅡ世の死を悼むカンタータWoO87」、または「皇帝レオポルトⅡ世の即位を祝うカンタータWoO88」、いずれかのカンタータを見せたといわれる。ヴェーゲラーの「覚書」には次のように記されている。
ハイドンが初めてロンドンから帰るとき、彼には選帝侯のオーケストラによってボン近郊の保養地ゴーテスベルクで朝食が振る舞われた。この機会に彼にベートーヴェンがあるカンタータを提示したが、それはハイドンの格別な注意を引き、その作者は引き続きの勉学を激励された。その後、このカンタータはメルゲントハイムで上演されることとなったが、いくつもの個所が管楽器にとって、何人かの音楽家がこのようなものを演奏できないと宣言するほど難しく、上演はとりやめとなった。
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築1」(春秋社)P344
いつの時代も、革新者の創造物は、凡人には受け入れ難いものなのだろう。
ハイドンの第97番ハ長調は、正直地味な作品である。しかしながら、30年間仕えたエステルハージ家の楽長の座を受け渡し、フリーでロンドンに渡って得た解放感が《ザロモン・セット》のどの交響曲にも感じられる中、特にその音調がよく染み入り、味わい深い交響曲となっている。
アーベントロートの棒は、推進力に富むもの。第97番ハ長調第1楽章アダージョ―ヴィヴァーチェにおけるテンポの揺れから生じる生命力が素晴らしい。また、第2楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポは変奏曲だが、各変奏における色彩の絶妙な描き分けこそアーベントロートの成せる業。そして、堂々たる(意志的な)第3楽章メヌエット(アレグレット)を経て、終楽章プレスト・アッサイの決然たる有機的な響きに思わず興奮。
ヘルマン・アーベントロートは、まるでベートーヴェンを指揮するようにハイドンを再生する。