セーゲルスタム指揮トゥルク・フィル ベートーヴェン 皇帝ヨーゼフⅡ世の死を悼むカンタータ(2018.10録音)

ベートーヴェンの偉大さは、気ままな自由精神ではなく、あくまで決められたルール、あるいは枠の中で常に革新の思想があったことだと僕は思う。そして、人生をかけて徐々に枠を拡げ、その枠を破るのは後世の音楽家たちに委ねたことだ。その意味で、彼を超えらえるものは誰ひとりとしてなかった。

広く流布しているベートーヴェンのイメージでは、彼が共和制の熱烈な支持者で、貴族をはじめとする旧特権階級を否定したように思われがちだが、そうではない。なにしろベートーヴェンは、自らに敬意を表する貴族とは積極的に友好関係を結んだ。ハプスブルク家の皇帝を筆頭に貴族が文化を育んできたウィーンを、自らの後半生の中心地に定めたのもその現われだ。
つまりベートーヴェンは、徳のある支配者が闇の中に置かれてきた市民階級を解放する、という世界を望んでいたといえよう。また、だからこそ、《皇帝ヨゼフⅡ世の死を悼むカンタータ》の中に書かれた旋律が、自由を歌い上げるオペラ《フィデリオ》へと採り入れられた。

(小宮正安「巨人ベートーヴェン」の誕生―その背景を社会・文化から読み解く)
「レコード芸術」2020年3月号P34

目から鱗が落ちた。
「闘争から勝利へ」という概念が、彼に対するイメージを固定化してしまったのか、実際のベートーヴェンは(その作品を鑑みても)実に全体観に長けた、すべてを包括する母性に優れた人だったのかもしれない(とあらためて思った)。

1790年2月20日、ウィーンで皇帝ヨーゼフⅡ世が逝去。
ヨーゼフⅡ世の追悼式が企画され、追悼カンタータの上演が予定されたという。そのカンタータの作曲者として白羽の矢が立ったのは、当時19歳のベートーヴェンだった。

ベートーヴェン:
・皇帝ヨーゼフⅡ世の死を悼むカンタータWoO87(1790)(2018.10.15-19録音)
レーッタ・ハーヴィスト(ソプラノ)
ユハ・コティライネン(バス)
アボエンシス大聖堂聖歌隊
・皇帝レオポルトⅡ世の即位を祝うカンタータWoO88(1790)(2018.8.27-31録音)
ヨハンナ・レースヴオリ(ソプラノ)
トゥオマス・カタヤラ(テノール)
ニクラス・スパンベリ(バス)
キー・アンサンブル
レイフ・セーゲルスタム指揮トゥルク・フィルハーモニー管弦楽団

ヨーゼフⅡ世追悼カンタータの冒頭合唱の厳かな悲しみにベートーヴェンの天才を思う(終曲合唱も同様)。ちなみに、第4曲ソプラノアリアと合唱に登場する旋律は、後に「フィデリオ」クライマックスにおいてフロレスタンが妻レオノーレに助けられるシーンに転用されるものだ。

少年ベートーヴェンは、皇帝の死を心から悔み、悲しみを表出する。
彼の内なる信仰の思いと、天から降り注ぐ光がすべてを包み込むような音楽に涙する。

一方の、皇帝の戴冠のためのカンタータは、冒頭ソプラノのレチタティーヴォと合唱から喜びに満ちる。ここにはベートーヴェンが秘めていた良心の明るさと慈しみが投影されるよう。何という憧れ、何という希望。

(1792年)7月初旬、1年半のロンドン滞在を終えたハイドンがウィーンへの帰国途上ボンに立ち寄り、宮廷楽団員たちによる盛大な歓迎会が開かれた。この場で若い楽師ベートーヴェンが正式に紹介され、これまでに作曲したオーケストラ作品をハイドンに見てもらうことになった。それは《皇帝ヨーゼフの死を悼むカンタータ》と《皇帝レオポルトの即位を祝いカンタータ》の2曲、あるいはどちらか1曲であっただろう。このときハイドンはベートーヴェンの才能と大きな成長の可能性を見抜き、選帝侯にウィーンへの留学を進言する。巨匠ハイドンの推挙もあって、22歳を目前にしたベートーヴェンはボンの宮廷楽師として1年間の有給休暇を許され、ウィーンのハイドンの許に留学することになった。
平野昭著「作曲家◎人と作品シリーズ ベートーヴェン」(音楽之友社)P35

ベートーヴェンのウィーン留学への足掛かりとなったであろう作品の鷹揚さ。
セーゲルスタムの指揮には後光が差すようだ。

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