
2001年5月21日、渋谷は東急Bunkamuraオーチャードホール。
チョン・ミョンフン指揮ローマ聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団のコンサートで僕は(実演で)初めてルチアーノ・ベリオの「シンフォニア」を聴いた。
マーラーの「復活」第3楽章スケルツォを中心に第4番や第9番、あるいはバッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ベルリオーズ、ドビュッシー、ラヴェル、シェーンベルク、ヴェーベルンなど古今の天才たちの数多の楽曲の断片が引用されたこの作品は、前衛的でありながら随所に聴き慣れたフレーズが浮沈し、その(一般的な古典音楽の既成の方法とはまったく別の)革新的な響きに、僕は新たな音楽の創造の世界に誘われることしきりだった。
語りを担当したスウィングル・シンガーズの人声とは思えない様々な効果を駆使した表現にも舌を巻いた。もちろん管弦楽のイタリア的明朗さ、そして歌の豊かさについても忘れ難い。
2001年5月21日(月)19時開演
Bunkamuraオーチャードホール
・ベリオ:8つの声と管弦楽のための「シンフォニア」
~アンコール
・J.S.バッハ:小フーガト短調BWV578
休憩
・ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77
・ヴェルディ:歌劇「運命の力」序曲
~アンコール
・マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲
・ロッシーニ:歌劇「ウィリアム・テル」序曲
スウィングル・シンガーズ(コーラス)
チョン・キョンファ(ヴァイオリン)
チョン・ミョンフン指揮ローマ聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
チョン姉弟による夢の協演ということで期待したブラームスは正直今一つだったのだけれど、それでも今となっては懐かしい思い出。圧巻は、やっぱりベリオの「シンフォニア」だった。

音楽は・・・決まった音高や既成の形式からできているのではありません。音楽は、音に関する諸現象を探求し、選択して、それらを、現実的にして潜在的、既知にして斬新な、音の連続体に統合する開かれた可能性としてかんがえられるべきなのです。
(ルチアーノ・ベリオ)
それこそコラージュ的手法を駆使して、音を積み上げ、音の連続体として統合された作品が、新たな生命を獲得する。破壊と創造を一にした音楽が、ピエール・ブーレーズの見事な魔法によって蘇る。押しては引き、引いては押す、怒涛の如く波が押し寄せるベリオの奇蹟。
音盤を聴きながら僕は思う。実演であればこその音響効果とエネルギー、あるいはパッション。特に、現代音楽作品はどうしても舞台に直接触れねば真価はわからぬものだということを。
「アインドゥリュッケ(複数の痕跡)」についても同様。録音では伝わり切らない阿鼻叫喚のSF的マジックが作品の内にはありそうだ。
ヤニス・クセナキスの分厚い音。それでいてこの音の塊はどこまでも柔らかい(と僕には感じられる)。恐怖よりも安寧を喚起する女性性の音楽とでも表現しようか。
メシアンの勧めもあって、クセナキスは、建造物がその構造に裂け目や割れ目が入ることなく構築されるのと同じように、楽器の音がどのように「構築」されうるかを考え始めた。建築と音楽の両方を並行して追求し、ル・コルビュジェのスタジオで、エンジニアとして、のちには設計士として何年ものあいだ働き、波形の凸面系と凹面系を持つ複雑な建築モデルを専門とするようになった。
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P415-416
クセナキスの元型はそこにありそうだ。