
ショスタコーヴィチの新作オペラは、ソヴィエト音楽がこれまでに発表した作品の中でも最も重要な作品として無条件に認められなければならない。
ショスタコーヴィチのオペラは強烈な社会的悲劇であり、あるいは作曲家が定義したように、印象的な音楽とイントネーションのリアリズムによって登場人物が描かれた「悲劇的風刺」である。
(イヴァン・ソレルチンスキー)
ソレルチンスキーのこの評を見てかのオペラに興味を持たない人はいないだろう。
問題作「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は、1934年1月22日にレニングラードのマールイ劇場にて初演された。魑魅魍魎、どろどろの愛憎悲劇は、殺人の連続で実に生々しく、そして異様に暗い(しかし、鋭利な刃物のようなショスタコーヴィチの創造した音楽は、どのシーンにおいても刺激的であり、聴きどころだ)。

ドミトリー・ショスタコーヴィチは、1930年にオペラに着手し、2年後に完成した。ロシアの作家ニコライ・レスコフの小説『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1864)が採用され、ショスタコーヴィチはアレクサンドル・プライスと共同で台本を執筆した。
ショスタコーヴィチはオペラのジャンルを悲劇風刺と定め(1934年、ウラディーミル・ネミロヴィチ=ダンチェンコとの対話の中で、彼はそう呼んでいる)、二人はレスコフの小説の筋書きを基本にしながらも、当初の設定を大幅に変更した。ショスタコーヴィチのヒロインの解釈はレスコフのそれとはまったく異なっていた。
ショスタコーヴィチのカテリーナは、生まれながらの洗練さと内面的教養を具えており、非常に傷つきやすく苦悩の人物であるのに対し、レスコフのカテリーナは、肉欲に支配され、他人の苦難には耳を貸さず、何よりもパッションを優先する人物だ(ショスタコーヴィチのカテリーナは一方で深い精神生活を良しとする)。彼女は自省し、疑い深い反面、一方で愛し、苦悩する。そして常に自分が犯した罪に立ち返ろうとするのである。
カテリーナにとって彼女自身の幸福はいわゆる善とは相いれないものであり、それゆえに彼女は決して心の平安を得ることができない。そういうヒロインの性格に対する新たな解釈の結果、二人は新たな場面を挿入し、登場人物の一部(カテリーナの幼い甥とその母親)を削除し、レスコフの筋書きの一部(カテリーナとセルゲイの子どもの誕生)を省略した。
この物語を通じ、一つの主題が浮び上る。つまり、人を抑圧すると、その人の性質や性格がその抑圧に対して抗い、それが時には犯罪につながり、そのことでその人は一層深い奈落に突き落とされ、最終的にその人は自らの内なる良心によって裁かれることになり、社会からも犯罪者としてレッテルを貼られてしまう。ショスタコーヴィチとプライスは、カテリーナという一人の人物の問題というプリズムを通して社会の問題を明らかにし、あくまで個人的であるとはいえ、人間の孤独と、未来永劫叶うことのない希望を描くのだ。
現状に抗おうとする行動はカテリーナに罪を犯させるよう強いる。それは、彼女を幸せにするどころか、さらなる苦悩をもたらす。愛する人(セルゲイ)の命を脅かす者の殺害、そして2度目の殺害も、外の「闇」との対決を促し、カテリーナの魂はますます傷つく。
ちなみに、ショスタコーヴィチは、改訂版でカテリーナとボリス・ティモフェーヴィチの悲劇を、過度に下品な俗っぽい比喩表現をより抑制された表現に置き換えることによりカテリーナの個人的な悲劇であることを強調するように大幅な変更を加えている。
題名は「ムツェンスク郡のマクベス夫人」から「カテリーナ・イズマイロヴァ」に変更された(例えば、改訂版で導入した老囚人の登場は、一人の人間の問題を一般的、社会的レベルにまで広げることに成功している)。
オペラ「カテリーナ・イズマイロヴァ」は、偉大な作曲家の青春時代の終焉を告げる作品となり、ショスタコーヴィチが後に固執することになる独自のスタイルを抽出しながらより独創的な道を模索するその過程を示唆するものとなった。
~MEL CD 10 02050
ヨシフ・スターリンの逆鱗に触れたオペラをショスタコーヴィチは一旦お蔵入りにさせたが、独裁者スターリンが逝き、そろそろ時効だというタイミングで問題ある箇所を削除し、一部音楽を変更し、初版の持つ革新的、暴力的な音調を緩め、改訂版を創出した。
歌劇「カテリーナ・イズマイロヴァ」は、1963年1月8日、モスクワのスタニスラフスキー・ネミローヴィチ=ダンチェンコ名称国立モスクワ音楽劇場にて初演された。
初演を指揮したプロヴァトロフによる直後のセッション録音が素晴らしい。
世渡り上手な(?)、二枚舌的手法を駆使(?)したショスタコーヴィチの熟練の筆が、初版の問題をオブラートに包む。しかし、これこそ退化ではなく進化であり、また深化だ。
2つの間奏曲を追加し、一見鋭さを失った音楽は、しかしどこまでも深く、美しい。
第1幕カテリーナのアリア「ある日窓越しに私は」の悲哀、そして第4幕のカテリーナのアリア「喜びの代りに裁きを受けるのは」の悲痛、あるいはモノローグ「森の奥の湖の水は」の感傷こそ聴きどころ(エレオノーラ・アンドレーエヴァの物憂げな歌唱がまた見事)。
カテリーナは人間の精神に潜む表面と裏面の両方を体現する。
天から裁かれるのでなく、内なる良心によって人は自ら自らを裁くのである。
すべては因果の大清算の中での自己責任。
