
イギリス人ピアニスト、チャールズ・ニートが、ロンドン・フィルハーモニック協会から委託されて序曲の作曲をベートーヴェンに依頼した顛末が実に興味深い。ニートは長らく楽譜を受け取ったまま本国に送っていなかったようで、ベートーヴェンの失望と怒りを露わにした彼宛の手紙がいくつか残されている。
翌年、ロンドンで演奏されたのは「聖名祝日」序曲作品115のようだが、ニートの報告によると聴衆の受けは良くなかったそうだ。それに対して、ベートーヴェンは次のように反論する。
3つの序曲(「アテネの廃墟」「聖名祝日」「シュテファン王」)がロンドンで好まれなかったことを聞いて残念に思いました。私は決してそれらを私の最上の作品とは考えません(しかしシンフォニーイ長調についてならそう言うかもしれません)が、人々が簡単には満足しない当地(ウィーン)やペシュトでそれらは不評であったわけではありません。演奏に問題があったのでしょうか?党派心などはなかったのでしょうか?
(1816年12月18日付、ニート宛)
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築3」(春秋社)P937
ベートーヴェンの自作への自負と自信が垣間見える。
実際、当時のロンドンにおけるオーケストラの演奏技術はレベルが低かったことは間違いなく、まともな「受け皿」あっての芸術作品だということだ。
それにしても一方で、3つの序曲が自身の最上の作品ではないと認めている点も、彼が自己批判精神高く、常に革新的で優れた作品を生み出そうという気概に溢れていただろうことが読み取れ、面白い。
レイフ・セーゲルスタムの、トゥルク・フィルとの一連のベートーヴェン作品新録音が素敵だ。
内に沈潜しない、外に開かれた音楽たち。にわか仕立て(?)とは思えない、どの瞬間もベートーヴェンの一つの側面を表わす音楽だが、セーゲルスタムの肯定的なアプローチ、つまり、ベートーヴェンの抱える様々な苦悩をむしろ必要必然と解釈し、開放的に再生する方法が、「私の最上の作品とは考えない」作品に生命力を与えているのだと僕は思う。何という純粋さなのだろう。一点の曇りもない、確信に満ちる演奏によって「アテネの廃墟」はもちろんのこと、「献堂式」序曲までもが傑作として僕たちの眼前に姿を現している。
アウグスト・フォン・コツェブーによる「アテネの廃墟」は進歩的な物語(智慧の女神メネルヴァが目覚め、ペシュトを新たなアテネへと蘇らせる)だが、その内容に刺激されたベートーヴェンの魂がいかに革新的なものであったかも想像できて興味深い。
《アテネの廃墟》と《シュテファン王》の台本作者としてベートーヴェンとも交友のあったアウグスト・フォン・コツェブー(1761-1819)は、1806年にプロイセンがナポレオンに敗れるとロシアに亡命し、一時はロシアで総領事を務めていた。戦後も反動的人物と目されていたが、その彼が1819年3月23日にブルシェンシャフトの急進派カール・ザントによってマンハイムで暗殺されるという事件が起こった。これをきっかけにメッテルニヒがドイツ連邦主要10カ国の代表をカールスバートに招集して、8月6日から31日まで対策の会議を開いた。そして9月20日に連邦議会で採択されたのがいわゆる「カールスバート決議」である。
~同上書P1005
いつの時代も世は保守と革新との戦い。あるいは思想のぶつかり。ベートーヴェンが心底で目論んだのは、そういう一切を超えた調和なのだとあらためて思う次第。