ブレンデル シューベルト ピアノ・ソナタ第19番D958ほか(1968録音)

息の長い旋律に、沈潜する音調、ときに弾けるリズム。
そこには鼓動があった。

ブレンデルのピアノには、正直ほとんど感化されたことがなかった。
しかし、久しぶりに彼の弾くシューベルトを聴いて、主観のない(?)、安定の表現に、陳腐さよりも新鮮さを感じた。僕の心の器が大きくなったのか、これぞ「中庸」という名演奏に唸った。

人間に役だつものが真実なのです。自然は人間の中に要約されています。すべての自然の中で人間のみが創造されたものであって、すべての自然は人間のためにのみあるのです。人間は諸仏の尺度であり、人間の救済が真理の判断基準です。人間の救済理念に対する実際的な関連を欠く理論的認識などは興味のないもので、真理としての価値をことごとく否認され、入場を拒否される必要があるくらいです。キリスト教的諸世紀は、自然科学が人間にとって何の価値も持たないという点で完全に一致していました。コスタンティヌス大帝が王子の教師に選んだラクタンティウスは、ナイル河の水源地や、物理学者が天界について語るたわごとを知っていたところで、いったいどんな至福にあずかるかと、あけすけに問いを発しました。ひとつあなたから、それに答えてやってください。プラトン哲学が他のどんな哲学より好まれたのは、それが自然認識にたずさわるのでなく、神の認識にたずさわるものだからです。あなたに保証してもよろしいが、人類はまさにこのような観点にたち帰ろうとし、真の科学の課題は、救いのない認識を追いかけることでなく、有害なもの、あるいは、ただ理念的に無意味なものをも原則として除き去り、一言にしていえば、本能、節度、選択を告知するにあるということを洞察しはじめています。教会が光に対して闇を弁護したと考えるのは、子供じみたことです。教会が事物の認識を目指す「無前提的」努力を、つまり、精神性とか救済獲得の目的とかをかえりみようとしない努力を、罰すべきものと宣言したのは、まことに当を得た処置でした。人間を暗黒に導いてきたし、ますます深く導いていくであろうものは、むしろ、「無前提的」、非哲学的な自然科学なのです。
トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山」(下巻)(新潮文庫)P112-113

マンらしい遠回しの、複雑な言い回しだが、言葉にできない自然、宇宙の根源と繋がる真理の獲得こそだというのである。シューベルトの音楽がなぜ素晴らしいのか?
それこそ内なる自然と一体となった真理があるからである。しかも、「中庸」の精神を体現したブレンデルの演奏の美しさ、意味を僕はここで初めて知ったように思う。

シューベルトにとって偉大な英雄はベートーヴェンであった。この二人は滅多に顔を合わせなかったが、ベートーヴェンはシューベルトの歌曲を何曲か研究し、こう称賛した。「まさしく、シューベルトの中には聖なる火花が宿っている!」年少の作曲家は自分の英雄が亡くなった時深く悲しみ、葬列では自ら松明を掲げた。だが2年と経たないうちに、彼自身横臥し、死を迎えようとしていた。腸チフスと診断された精神錯乱を伴う(神経熱と呼ばれる)発熱が原因で、この街のスラムではよく見られる病気である。わずか31歳の生涯であった。
パトリック・カヴァノー著/吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」(教文館)P76-77

楽聖ベートーヴェンとシューベルトは内奥で、魂で繋がっていたのだろうと思う。

シューベルト:
・ピアノ・ソナタ第19番ハ短調D958(遺作)
・ピアノ・ソナタ第15番ハ長調D840「レリーク」
・16のドイツ舞曲と2つのエコセーズ作品33 D783
アルフレート・ブレンデル(ピアノ)(1968録音)

ウィーンでの録音から55年。
最晩年のソナタ第19番D958が美しい。ベートーヴェンが「闘争」の象徴とした調性の中で、シューベルトは高らかに、しかしまるで別れを告げるかのように悲しく歌う。その音楽をブレンデルは感情を排し、理性的に、悪く言えば無機的に演奏する(その無機性こそが最晩年のシューベルトを表現する上で重要なのだと僕は気づいた)。とにかく美しい。何にも増して美しい。

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