クリュイタンス指揮ベルリン・フィル ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」(1957.12録音)

ベートーヴェンは明らかにロッシーニとは違うと思う。しかし、各々比較の対象にすべきものではないだろう。しかし、いつの世も世評というのは、正反対のものを対置して大衆を煽りたがるもの。今も昔もすべては企ての中にある茶番なのである。

その比較対置は次の世代になると《第9》と《セヴィリアの理髪師》とか、精神性と娯楽性といった歪められ方をしていく。そして30年後にはもう、ベートーヴェンに「君はコミック・オペラだけを書くように」と言わせる構図が出来上がっているのに驚かざるを得ない。ロッシーニは、ベートーヴェンの敵対者として、コミック・オペラ専門と貶められ、彼の真髄たるシーリアス・オペラの存在は無化された蔑視の発言がベートーヴェンの口を通して出るという、双方を辱しめる二重構造が出来上がっていたのである。
大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築3」(春秋社)P1021

その後のワーグナー派対ブラームス派という括りも然り。芸術に良し悪しはなく、まして貴賤もあるまいに。

1824年はついに交響曲第9番が完成を見た年だ。
ちなみに、5月7日のケルンテン門わきの帝国・王国宮廷劇場における初演の模様を伝えたライプツィヒ「総合音楽新聞」(7月1日付)の演奏評には次のようにある。

歌唱パートに関しては少なくとも決して十分には完全ではなかった上演だが、格別な難しさにあって3回の練習も十分ではなく、それゆえに堂々たるパワー全開も、またしかるべき光と影の配分についても、音程の完全な確実性、より繊細な色合い、ニュアンス豊かな演奏についても、そもそも問題外である。それにもかかわらず印象は筆舌に尽くしがたく偉大かつすばらしく、歓呼の喝采が熱狂的に、崇高なる巨匠に胸の奥底から払われ、その汲めども尽きない才能は私たちに新しい世界を開き、聖なる芸術の、決して耳にしたことのない、予想だにしたことのない、奇跡の神秘を顕わにした。
~同上書P1058

演奏の是非はともかくとして、音楽が人々に与えた神秘体験の壮絶さがかくも伝わる評である。現代においても、特に年末のわが国では風物詩となっている「第九」が当初から絶賛に値する創造物であり、普遍的価値を持つものだということが明白だ。

アンドレ・クリュイタンスがベルリン・フィルを振った名盤を聴いた。

・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」(1957.12.10-17録音)
グレ・ブラウエンスティーン(ソプラノ)
ケルスティン・マイヤー(コントラルト)
ニコライ・ゲッダ(テノール)
フレデリック・ガスリー(バス)
ベルリン聖ヘドヴィヒ大聖堂合唱団
アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

時代はすでにカラヤンの時代になっていたが、フルトヴェングラー時代のベルリン・フィルの暗澹たる「音」を髣髴とさせるディオニュソス的色合いを保ちながら、クリュイタンスの内に秘めたラテン的明朗さ(?)と見事に中和した名演奏が繰り広げられる。どの楽章も好調で、幾度聴いても飽きることのない充実した響きは、録音から60余年を経ても色褪せない。あっという間に過ぎ去る第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ,ウン・ポコ・マエストーソのうねり、あるいは第2楽章モルト・ヴィヴァーチェの生命力漲る熱狂は、(聴き方によっては)フルトヴェングラー以上かも。そして、神秘さこそは後退するものの、この世の安寧を説く第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレのそこはかとない美しさ。終楽章合唱の歌う”vor Gott”の、どこまでも永遠の、終わることのない祈り。ベルリン・フィルの第九の指折りの1枚だ。

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