クレンペラー指揮フィルハーモニア管 ベートーヴェン 「献堂式」序曲作品124(1956.7録音)ほか

それは力と集中の啓示、(・・・)精神的なものへの変容でした。そして、彼がたいへんな苦しみに陥っていた苦難の時期に見せたこの内なる力を通じて、精神は肉体より強いということが、彼のばあいは、ほかのだれよりも示されるのです。
ついこう考えてしまいます。指揮とはいったいなんなのか? 技巧とはなんなのか? 自分たちはなにをやっているのか? これらすべてはなんなのか? なぜ自分たちはあれこれ学ぶのか? もし彼のなかから、つまり指揮者のなかから(・・・)作曲者がメタフィジカルにあらわれてくるかのように、一瞥しただけで全奏者と全曲をひとつにまとめられるのであれば、(・・・)すべては余分なことではないか! この力の変換こそ、わたしの体験のなかでもっとも圧倒的で、もっとも偉大で、もっとも美しいものだったのです。

(ラファエル・クーベリック、1965年)
E・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P222

「火事場の馬鹿力」というように、苦難の状況にあるとき、人は思いもかけない力を発揮する。学ぶことも、スキルを磨くことも、精神、魂から発せられる熱の前では何の意味もなさないのだとクーベリックは言うのである。オットー・クレンペラーにまつわる彼の指摘は、実に的を射ている。余分なものを削ぎ落せと天はいう。

確かに(晩年)全盛期のクレンペラーの演奏は、録音をもってしても恐るべき力と集中を啓示する。

ベートーヴェン:
・「レオノーレ」序曲第3番作品72b(1806)(1954.11.17, 18 &24録音)
・歌劇「フィデリオ」作品72序曲(1814)(1954.11.17, 18 &24録音)
・「献堂式」序曲作品124(1822)(1956.7.21 &25録音)
・「プロメテウスの創造物」作品43序曲(1800-01)(1957.11.25録音)
・劇音楽「エグモント」作品84(抜粋)(1809)
—序曲(1957.10.25録音)
—第1曲 クレールヒェンの歌「太鼓をうならせよ」(1957.11.21 &25録音)
—第4曲 クレールヒェンの歌「喜びにあふれ、また悲しみに沈む」(1957.11.21 &25録音)
—第7曲 クレールヒェンの死(1957.11.21 &25録音)
・「シュテファン王」作品117序曲(1811)(1959.10.28録音)
・「献堂式」序曲作品124(1822)(1959.10.28録音)
ビルギット・ニルソン(ソプラノ)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団

何と聡明で、何と若々しく明朗な音楽たちなのだろう。ベートーヴェン渾身の作品群が、晩年のクレンペラーの棒によって一層豊かに甦る。何よりまた「エグモント」における、ビルギット・ニルソンの歌唱がことに素晴らしい。「クレールヒェンの死」は悲壮感漂うも、浄化と癒しの歌だ。それに、2つの録音が収録される「献堂式」序曲作品124の、わずか3年ながら各々聴いた印象がこうも違うのかということに驚かされる。ちなみに、僕の耳には、より集中力の高い1956年の録音の方が心地良く、より感動的だ(後者はぬるま湯のよう)。

人気ブログランキング


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む