
夢見るフランシス・プーランク。
プーランクのたった一人の弟子であるガブリエル・タッキーノによるピアノ作品集は実に出色。こんな素敵な音楽がひしめいていたのだとは露知らず。
もうこんなに遠くまで下っているこの過去を、そういつまでも自分につなぎとめておく力があろうとは思われない。だから、もし作品を完成できるくらいに、長いあいだその力が私に残されていたら、かならずや私はまずその作品に、たとえそれが人間を怪物のような存在にしようとも、途方もなく大きな一つの場所を占めるものとして彼らを描くことになるだろう。空間のなかで人間にわりあてられた場所はごく狭いものだが、人間はまた歳月のなかにはまりこんだ巨人族のようなもので、同時にさまざまな時期にふれており、彼らの生きてきたそれらの時期は互いにかけ離れていて、そのあいだに多くの日々が入り込んでいるのだから、人間の占める場所は反対にどこまでも際限なく伸びているのだ—〈時〉のなかに。
~マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて13」「第七篇 見出された時II」(集英社文庫ヘリテージシリーズ)P280-281
これにて完結となる「失われた時を求めての」最後のシーンには、人間離れした、純粋な「孤」がある。あくまで客体となった宇宙未生の虚無があるように僕には感じられる。
「時」とは概念であり、そもそも存在しないものだ。
本来、昨日もなければ今日も明日もない。ただただ無限の、永遠のなかにそれぞれがただただ存在しているだけなんだと思う。
タッキーノの弾くプーランクには特別な愉悦が潜む。
「時間よ、止まれ」と言わんばかりの永遠がそこには刻まれる。
聴いていて、僕はいつも不可思議な感覚に襲われる。
いつまでも終わることのない、フレンチ・ポップを髣髴とさせる洒脱な、それでいてどこか悲しげな、美しい旋律、音調の宝庫。
ここではショスタコーヴィチが木魂し、あるいはスクリャービンすら木魂する(即興曲第15番「エディット・ピアフに捧ぐ」)。
