バーンスタイン指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第16番作品135(1989.9録音)ほか

もし私が、一生ひとりぼっちで離れ小島に暮らさなければならないとしても、ベートーヴェンの後期の5曲の弦楽四重奏曲のスコアを持っていれば、けっして退屈はしないだろう。
(ロマン・ロラン)

精緻な歴史的検証に基づく「研究書」はもちろん素晴らしいが、作者の理想や空想までもが入った「偉人伝」の類にも僕は絶大に反応する。ロマン・ロランは「ベートーヴェンの生涯」を上梓した際、序文に次のように書いた。

世界がこの「ベートーヴェン」をつかんだ。このささやかな本が少しも予期しなかった一つの幸運を、世界がこの本に与えた。この本が世に出た当時には、フランスの数百万の人々からなる一世代—自己の理想精神が抑圧されているのを感じている一世代が存在していて、この人々は、彼らの精神に解放の力が来るのを心待ちに待っていた。そういう解放の言葉を、彼らはベートーヴェンの音楽の中に見いだして、彼らはそれをこの本にも求めに来たのである。あの当時を体験して今も生き残っている人々は誰しも、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の音楽会の印象を今も思い出すであろう。それはまるで、アグヌスの祈りがいわれる瞬間の教会のようであり、聴衆の悲痛な表情は、ベートーヴェンの音楽が辿る悲しみの聖なる道筋について行きながら、その道筋の意味の啓示から来る反映に照り輝かされていた。今生きている人々は、昨日生きていたあの人々から遠ざかっている。(しかし昨日のあの人々は、明日生きるであろう人々に、かえっていっそう近しいのではあるまいか?)
ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P13

荒廃した20世紀初頭の欧州にあって、崇高な精神すら失いつつあった時代の、精神のいわば特効薬がベートーヴェンの音楽だったのである。ロランが、弦楽四重奏曲に、「アグヌスの祈りがいわれる瞬間の教会」を投影している点がまた絶妙だ。俗世間にまみれた中で、ベートーヴェンが心の声に、魂の声に忠実に音を紡いだ一連の(一つとして不作のない)弦楽四重奏曲の奇蹟。

録音の前年に亡くなった妻フェリシア・モンテアレグレの思い出に捧げた、バーンスタインの編曲による弦楽四重奏曲嬰ハ短調作品131は(コンツェルトハウスでのセッション録音)、文字通りエレジーといえまいか。墨色の、分厚い音が、亡き妻を思い、中でも第6楽章アダージョ・クワジ・ウン・ポコ・アンダンテにおける慟哭が、静かな、しかし癒しの涙を誘う。

ベートーヴェン:
・弦楽四重奏曲第16番ヘ長調作品135(弦楽合奏版)(1989.9録音)
・弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131(弦楽合奏版)(1977.9録音)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

一層素晴らしいのは、ベートーヴェン最後の四重奏曲作品135!!!
弦楽合奏の、沈潜する表情と、内側から浄化され行く音調は、翌年急逝する自身への(無意識の)レクイエムではないかとさえ思えるほど透明だ。遅々と進まぬ、思念たっぷりの第3楽章レント・アッサイ・エ・カンタンテ・トランクィロこそその最たる証。

ベートーヴェンは偉大な、とらわれない声である—おそらく当時のドイツ思想の中では唯一の。彼はそれを自覚していた。彼は自己に課せられていると感じた義務についてしばしば語っている、それは、自己の芸術を通じて「不幸な人類のため」「未来の人類のため」der künftigen Menschheitに働き、人類に善行を致し、人類に勇気を鼓舞し、その眠りを揺り覚まし、その卑怯さを鞭打つことの義務である。甥への手紙にも書いている—「今の時代にとって必要なのは、けちな狡い卑怯な乞食根性を人間の魂から払い落とすような剛毅な精神の人々である」と。
~同上書P63

続く終楽章の哲学的表情の中に垣間見られる一抹の優しさは、最晩年のバーンスタインの内に宿る無垢な赤子の心の反映であろうか。「かくあるべきか?」「かくあるべし」が重い。

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