青年武満徹がオリヴィエ・メシアンに惹かれた理由はこうだ。
何よりも、あの官能的な音ですね。音の響きの色彩の豊かさです。ああ、これが自分が探し求めていた音だと思いました。感覚的に自分にぴったりだったんです。それまで最初のレントをまとめるのに、ものすごく悩み、いろんな模索をつづけていたけど、何か同じようなところを堂々めぐりするばかりという感じだったんです。それがメシアンを聞いたとたん、その堂々めぐりしていた場所からポンと飛んで、ぜんぜんちがうところに出られたという感じがした。自分の感性のいままで閉じられていたドアがパッと開かれたという感じだったですね。ぼくは音の色彩というものをずっと考えていたんですが、これがそれだと思いました。実に豊かな色彩なんです。別の表現を使えば、音の語彙が実に豊かなんです。
~立花隆「武満徹・音楽創造への旅」(文藝春秋)P93
「音の響きの色彩の豊かさ」とは、メシアンの共感覚の賜物だろうか。
僕は同様に、武満徹のエッセイや言葉そのもの、あるいは詩、そしてもちろん音楽にも色彩の豊かさを思う。
武満徹の映画音楽。
妻は朝っぱらから暗いのでやめてくれと言う。
確かに映画の性質上、この音楽は暗い。しかし、そこには豊かな色彩がある。
「黒い雨」の暗澹たる風趣の音楽の内から湧き上がるエロスは、武満徹ならではの「語彙」だろう。見事に映画のシーンを髣髴とさせる音楽の力。それは、アンドレイ・タルコフスキーの追悼に書いた「ノスタルジア」にも通じるものだ。
ベルギーのイ・フィアミンギの演奏は、丁寧でありながら作曲家の心象風景を巧みに描く。深遠な慟哭の、弦の重低音を響かせる「ア・ウェイ・ア・ローンII」は、(やっぱり暗いが)なんて澄んだ音なのだろう。ここには慈しみがある。
そして、「アントゥル=タン」の(オーボエが醸す)不可思議な憂い。
ぼくのオーケストラの曲で、ティンパニー使ったのは一曲もないんです。西洋のオーケストラはティンパニーが一番大切なんです。ティンパニーがボトムを支えている。だけどそこがぼくが日本的なところだと思うんだけど、ぼくはどうしてもティンパニーを使えない。使ったのは、黒澤さんの「乱」だけです。黒澤さんがどうしてもティンパニーを使ってもらわなきゃ困るというから、仕方がなくて使った。
~同上書P88
本人の言葉通り、武満の音楽の秘密の一つはティンパニを使わないことだ。
ドビュッシーに優るとも劣らぬ日本的浮遊感はそこから生まれるものだろう。