
ヴェルディにとって、モーツァルトはさほど重要な作曲家ではなかった。彼はモーツァルトを“四重奏曲の作曲家”という言葉で片づけている。ヴェルディの頃のイタリアでは室内楽というと、1,2の極めてプライベートな室内楽クラブの音楽界を意味しており、その厳しいメンバーの制限ぶりは、1840年にロンドンでスタートしたジョン・エラのミュージカル・ユニオンを思わせるものがある。
~エドワード・J・デント/石井宏・春日秀道訳「モーツァルトのオペラ」(草思社)P14-15
時代の変遷とともに常識は大きく変わる。時間の問題だけではない。地域によっても思考や志向は大いに異なるのである。文字通り古今東西普遍というものはごく稀だ。
しかし果たしてヴェルディにとってモーツァルトがそんなに軽い存在だったのかといえば、そんなことはないのではないかとも思える。なぜならスカラ座が1814年に歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を上演した際、歌手や合唱を指導したのはヴェルディの師であったヴィンチェンツォ・ラヴィーニャであり、彼は師からかなりの影響を受けているようだからである。
彼のもとで学んだ3年のあいだ、私はカノンとフーガ、あらゆる種類のフーガとカノンばかり練習しました、と後年ヴェルディは回想している。
モーツァルトは普遍だ。永遠だ。
仮にヴェルディがモーツァルトのオペラを重視していなかったとしても、四重奏曲は認めていたのだから、やはり天才は天才のことがわかっていたと思いたいところ。
アルバン・ベルク四重奏団によるモーツァルトの安定感。
1784年11月9日完成のK.458冒頭楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイの鮮烈な出、一方、第3楽章アダージョの温もり。こういうコントラストの見事さにため息が出る。
一層素晴らしいのが1783年夏に完成されたK428(421b)の愁いを持った懐かしい響き。第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポに感じられる宇宙の鳴動。当時のモーツァルトの充実ぶりが音楽から十分に伝わる。続く、第2楽章アンダンテ・コン・モートも、気のせいか世の儚さを歌うようで、作曲後まもなく夭折する長男の死を悼むかのような哀しみが感じられる(作曲当時はむしろ生まれたばかりなのでそんなはずはないのだが、モーツァルト独特の予知能力か?)
1783年6月17日、モーツァルトとコンスタンツェの間に、初めての子どもが生まれ、この男の子は、祖父の名をとって、ライムント・レオポルトと名づけられた。モーツァルトは、父親に大喜びで報告している。「親愛なお父さん! おめでとう、あなたはお爺ちゃんになりました!—きのうの朝、17日の6時半に、愛する妻が、大きくて、元気な、ボールのようにまるまるとした男の子を無事出産しました」(6月18日付書簡)。
~西川尚生著「作曲家◎人と作品シリーズ モーツァルト」(音楽之友社)P143
長男ライムント・レオポルトは残念ながらわずか2ヶ月でこの世を去る。
モーツァルトがザルツブルクに帰郷している間、ヴィーンでは悲しい事件が起こっていた。預けていった長男のライムント・レオポルトが、8月19日に腸閉塞で死去したのである。モーツァルト夫妻がそれを知ったのは、ヴィーン帰着後のことであった。この時代は乳児の死亡率が現代よりもはるかに高かったとはいえ、初めての子どもを、自分たちの不在中に失ってしまった夫妻は、さぞ悲しんだことだろう。
~同上書P145
嗚呼!慟哭!!