モスクワ音楽院大ホールでのオール・ショパン・プログラム。
堂々たる威容が、アルトゥール・ルービンシュタインの形だと僕は思っていた。
しかし、ここには終始小さな感傷があった。哀しみや愁いや、遠く故郷を思う作曲家の心の叫びが一貫して鳴っていた。
ルービンシュタインのショパンを初めて聴いたとき、老大家は演奏活動からは引退していたもののまだ存命だった。僕は彼の弾くショパンにいちいち痺れた。
1966年に、2度目に来日したときは、ショパンをよくひいてくれた。そのレセプションが、東京のホテルでおこなわれたときの、79歳のルービンシュタインは、昔の精力的な、いかにも、舞台生活を楽しんでいるような、向こう意気の強い人間ではなくて、温顔で、落ち着いた、それでいて服装などは、若いときと同じく、きちんとしていて、ルービンシュタインは、相変わらず、しゃれ者だと思わせるくらいに、気品があった。
その演奏も、人間の暖かさが加わって、依然と変りなく、形の整った、オーソドックスなスタイルを保ちながらも、年齢のせいであろうか、技巧の華やかさよりは、音こそ往年さながらに、透明で、輝きをもっていたが、音楽全体に、渋味が増して、その天才の老熟した演奏には、心の明るくなる思いがした。
~「レコード芸術」1983年2月号P93
ルービンシュタインが亡くなったとき、いち早く追悼の言を「レコード芸術」誌に寄せたのは村田武雄さんだった。想いのこもる、温かい、文章に(ちょうど受験を間近に控えていた)僕は感動した。何より心を明るくするルービンシュタインの音楽に当時僕も何度も救われたのだ。
何と意味深い、そして温かいショパンの諸曲だろう。
僕がずっと昔から好きだったショパンはいかにも大らかで懐の深いこれだ。
モスクワの演奏会に組まれていたのは、オール・ショパン・プログラムである。招待主ソ連に対する彼のささやかな主張が、そこに秘められていたことは明らかである。ルービンシュタインは何年も前に初めて同地を訪れたとき、西側でしばらく活動してから本国に呼び戻されたばかりのプロコフィエフと面会を果たしていた。彼の口から聞かされたのは、「ロシア国民に害を与えかねない感傷癖に染まった音楽」だという理由から、共産党政権がショパンの作品の演奏を一時期禁止にしていた事実である。
(ポール・スキアーヴォ/木幡一誠訳)
~BVCC-35083-84ライナーノーツ
何より、興に乗ったアンコールの諸曲が素晴らしいのだが、最高というべきは、シューマンの「夕べに」!!(この静けさ、また繊細さ)そして、(珍しくも?)ドビュッシーの「水の精」!