シュミット=イッセルシュテット指揮北ドイツ放送響 ブラームス 交響曲第1番(1967.6.5Live)ほか

彼は、任意の隣人と名まえや住居を取り替えても、たいして変った者にはならなかっただろう。彼の心のもっとも深い点といえば、およそすぐれた力や人物に対する休むことのないそねみと、いっさいの非凡なもの、自由なもの、洗練されたもの、精神的なものに対する、しっとから生れた本能的な敵意なのだが、そうしたものも、町のおやじ連全体と共通だった。
ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳「車輪の下」(新潮文庫)P6

ヘルマン・ヘッセはブラームスの音楽を嫌ったという。
彼が最も嫌う俗人的な、虚栄心かあるいは劣等感をブラームスの音楽に聴きとっていたからなのだろうか。しかし、そういうヘッセの内側にも間違いなく抑圧された同質のものはあった。

抑え込まれた感情を、ここぞとばかりに吐き出さんとする名演奏。何て激しいブラームスなのだろう。情念が隅から隅まで染み渡る、実に人間味溢れる音楽よ。
この人の指揮について、僕は随分長い間誤解していた。例の、ウィーン・フィルとの整理整頓された、優雅な(?)ベートーヴェンの交響曲たちの印象がずっと僕の頭を支配していたように思う。僕は、この、北ドイツ放送交響楽団とのブラームスを聴いて思わずのけ反った。

ブラームス:
・交響曲第1番ハ短調作品68(1967.6.5Live)
・大学祝典序曲作品80(1970.9.2-4録音)
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団

颯爽たるテンポで朗々と始められる第1楽章ウン・ポコ・ソステヌート―アレグロが素晴らしい。情に溺れず、とはいえ、決して無情とはいえない色香が迫る音楽に僕は煽られる。また、それにも増して素晴らしいのは、第2楽章アンダンテ・ソステヌートの思念をこめた移ろいの妙(あくまで私見だが、最高の瞬間多々)。そして、高貴な第3楽章ウン・ポコ・アレグレット・エ・グラツィオーソを経て怒涛の終楽章アダージョ—ピウ・アンダンテ―アレグロ・ノン・トロッポ,マ・コン・ブリオ。このあたりは尻上がりにパッションの開放が見られ、最後のコーダに至って、ついにブラームスは自身の内なるコンプレックスを解消、昇華するのである。そのあたりのニュアンスを、荒れ狂いながらも実に奧妙にさぐるイッセルシュテットの棒に感無量。

なにが来るかは予期できない。ヨーロッパの魂は、はてしなく長いあいだ縛られていた動物だ。自由になったら、その最初の動きは非常に愛すべきものではないだろう。しかし、長い長いあいだたえずごまかし、まひさせてきた魂のほんとの苦しみが現われさえすれば、道やまわり道は重大ではない。そうなれば、われわれの日が来るだろうし、われわれを必要とするようになるだろう。指導者として、あるいは立法者としてではなく―新しいおきてをわれわれはもはや体験しはしない―自発的なものとして、共に進み運命の招くところに立つ覚悟をしているものとして、われわれを必要とするようになるだろう。みたまえ、すべての人間は自分の理想が脅かされると、信じられないほどのことをする用意がある。しかし、新しい理想、新しいおそらくは危険な不気味な成長の刺激がおとなう場合には、誰も居あわさない。そういう場合に居あわせて共に進む少数のものに、ぼくたちはなろう。そのためにぼくたちはしるしづけられているのだ。
ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳「デミアン」(新潮文庫)P218

デミアンの言葉には生命が宿る。
不穏な、先の見えない時だからこその恩恵。
同じように、シュミット=イッセルシュテットのブラームスにも、希望とパッションに溢れる心が通う。音楽は人々の心を一つにする。心と心がつながり、一つになれば、世界は間違いなく平和になろう。

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