それまではいつも第2幕の前に演奏されていた「レオノーレ序曲第3番」を最終場面の直前に挿入するというアイデアはマーラーのものだ。今や常套となっているこの方法は、実に効果的だと思う。
ところで小生の《フィデリオ》の上演は—とりわけ《レオノーレ序曲》は—当時の批評家のほぼ半分から激しく攻撃されました—とはいえ聴衆の方は真の喝采の暴風で小生の瀆神に対して赦免を授けてくれましたが—聴衆は無条件に溢れんばかりの共感のしるしを幾重にも投げかけてよこしました。じっさい幕の降りるごとに舞台の袖まで出てゆかなければなりませんでした—劇場中に「マーラー」の歓呼が長々と鳴り止まなかったのです—小生が姿を見せるまでそれが続くのですから。
(1892年7月14日、アルノルト・ベルリーナー宛)
~ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P106
実際このときの上演では、マーラーも通例に則って、「レオノーレ序曲」を第2幕の前に演奏したようである。しかし、ウィーンでの1904年の新演出のとき、マーラーは先のアイデアを具現化した。過去を回顧すると同時に、人類の進歩、発展、向上のために奏される序曲の荘厳さと美しさ。第2幕最終場面の死と再生(人類解放)の物語が、序曲の挿入によって一層神聖なものに展開されるのである。
レオノーレ (彼を抱擁しつつ)
愛しつつ
あなたの鎖をほどくことに成功しました。
愛しつつ高らかにうたいましょう。
フロレスタンは再び私のものなのです。
~アッティラ・チャンバイ/ティートマル・ホラント編「名作オペラブックス③フィデリオ」(音楽之友社)P123
破壊があっての創造であり、また調和。世界を平和に導くのはそれこそ女性(性)なのだとベートーヴェンは(おそらく)考えたのだ。
冒頭、序曲から熱気のこもる溌溂とした指揮に、ライヴでなくとも激情噴出するカール・ベームの本懐が手に取るようにわかる「フィデリオ」に、僕は思わず感嘆する。何より第1幕から生き生きとした生命力ある音楽に心が動くのだ。
クラシック音楽好きにあって、「フィデリオ」はさほど人気が高くない。
しかし、古今東西あらゆるオペラの中で、「魔笛」とあわせて「フィデリオ」は、僕にとって最高のオペラである。これは、レオノーレ(フィデリオ)を主人公とした智慧と慈しみと勇気のドラマであり、夫フロレスタンの解放を皮切りに、全人類を苦悩から解放する真の悟りのプロセスを扱った、21世紀の今こそいま一度見直されるべき作品だと僕は確信する。
数多ある録音の中で、ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン盤は出色のもの。その解放感たるや、そして、最終場面の慈しみに溢れる響きたるや(直前の「レオノーレ序曲第3番」も鮮烈)。