フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ブルックナー 交響曲第7番ホ長調(改訂版)(1951.4.23Live)

手元にある”Das Vermächtnis Wilhelm Furtwängler(ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの遺産)”と題するドイツ・グラモフォンのアナログ盤10枚セット(10LP 2721 202)。1982年2月、受験のために上京した際、秋葉原の石丸電気で購入したものだ。
高校生の僕が大枚叩いて購入したセットだが、当時、そのすべてを熱心に聴いたわけではなかった。

例えば、1951年、エジプトはカイロへの楽旅の際のブルックナーの第7交響曲。
その頃既に朝比奈隆の洗礼を受けていた僕は、妙な(某評論家の洗脳による)先入観からフルトヴェングラーのブルックナーを(きちんと聴きもせず)避けていた。

朝比奈隆指揮大阪フィル ブルックナー第7番(1975.10.12Live)ほかを聴いて思ふ

あれから40余年。僕の嗜好も変化し、心の器も大きくなった。
ほぼ初めて針を通したレコードの、1/fゆらぎに感激した。
決して良いとはいえない音質だけれど、確かにフルトヴェングラーとベルリン・フィルの音だった。そして、テンポの揺れを伴なう、いつものフルトヴェングラーの、浪漫薫る劇的な演奏だった。

フルトヴェングラーの指揮した『第7交響曲』は、将来もなかなかこれを越す演奏は考えられないほどの名演という世評の高いものだし、私もいろいろな点で、それに同意するのだが、
この第2楽章のコーダに入ってからの最も微妙なききどころの一つ。
これはホルンの旋律を移調して書き出したものだが、この時のリズムは、実に変わっている。楽譜にはリタルダンドという書き込みは全くない(これはまだよく調べつくしたわけではないが、ブルックナーでは後期になるにつれて、リタルダンドとかアッチェレランドとかテンポを細かく動かす記号は見当たらなくなるように思える)。しかし、フルトヴェングラーは第3小節の4つの八分音符に、みんなちがった長さを与える。もちろん、しだいに大きくおそくしてゆくのである。fからクレッシェンドして、音も上昇すると同時に、リズムは全音符にのび、量はfffに達する。そこで一拍休みをはさみ、もう一度fffがあって、つぎの小節はppである。その間にブルックナーはディミヌエンドとだけ書きこんだ。だが、さらに各音符ごとに見るといろいろの強調がついている。こういうものをどう処置するか。その仕方によって、私たちは、いろいろなスタイルの演奏を手にすることができるわけだが、そういう中で、このフルトヴェングラーがとった解決法こそ、これまで、最も典型的なブルックナー様式と考えられてきたものであった。注意しておかなければならない—ここには煩をはぶいて書き写さなかったが、ホルンの旋律には、同時にテナーとバス、コントラバスの5本のテューバが相寄って美しい和声を作っている。その和声の移りゆきは当然、旋律にニュアンスを与える。フルトヴェングラーのテンポのゆれは、その和声の陰影の裏づけとも非常に微妙にからみあっていて、単にアゴーギク、つまりテンポのゆれ動きと音力的なのび縮というだけでなく、そこには音色の明暗づけをもった汎化を相伴っている。実演で彼をきいたものは、皆知っているはずだが、その微妙さは、言葉につくしがたいものだった。レコードでは、それがやや感じとりにくく、靴をへだててかゆいところをかく想いがしないでもない。

「ブルックナーのシンフォニー」
「吉田秀和全集2 主題と変奏」P411-412

吉田さんのこの言葉は、フルトヴェングラーの実演に触れた経験を持つ者であるがゆえのまさに正当な指摘だろうと思う。ただし、おそらくこのレコードはEMIがリリースした1949年10月のライヴを指してのことだと思うのでカイロでの実況録音とは異なるが、基本フルトヴェングラーの解釈は変わっていないゆえ確かにここは(レコードの音質を超え隠れた)ききどころだ。

なお、下線部に関し、吉田さんは後年注釈をつけ、弁明されている。

前に、私はブルックナーの後期の交響曲には、リタルダンドやアッチェレランドと明記した例は見当たらないという趣旨のことを書いたが、あれはまだ勉強がたりないための誤りだった。現にこの『第8交響曲』の第3楽章は、poco a poco accel.(第129小節)とpoco a poco ritard.(第135小節)と明記されている個所がある。もちろん、その他bewegter(より動きをもって)という指示は何個所もある。ただし、私が前に書いたのは、フレーズの内部での細かなテンポのゆれを起こさせるためのリタルダンドその他を考えてのことだったのは断るまでもあるまい。
~同上書P438

音楽というものの深さを、否、音楽の解釈というものの深さを物語るエピソードだと思う。
ゆえに、正解はない。聴き手がその音楽に感動するかどうか、それだけなのだ。

・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(改訂版)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1951.4.23Live)

かつて僕はこの演奏に、どうしてもせかせかした、落ち着きのなさだけを聴き取っていたのだと思う。しかし、吉田さんの絶妙な指摘もさることながら、一定の年齢を超え、様々な演奏を聴いて来た現在の視点で聴くと、まさにアントン・ブルックナーが成そうとした音宇宙の顕現の一つであり、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがこの作品を通して聴衆に伝えようとしたブルックナーの(信仰、神への畏怖という)精神が見事に刻印されており、後世に残すべき記録の一つであると断言できる(しかし、やはりこれは実演を聴いてはじめてその真価がわかるものだろうと思う。想像力を働かせた上での今の僕の感想ということにしておく)。

白眉は第2楽章アダージョの憂愁。
まして(吉田さんの指摘する)コーダの神秘はいかばかりか。
それに、第3楽章スケルツォのトリオが(意外にも)絶品!
(改訂版ゆえ、第1楽章冒頭主題に付されたホルン・パッセージも当然ある。これはこれで「あり」だと僕は思う)

フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ブルックナー 交響曲第7番(1949.10.18Live) フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのブルックナー第7番アダージョ(1942.4.7録音)を聴いて思ふ フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのブルックナー交響曲第7番(1951.5.1Live)を聴いて思ふ フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのブルックナー交響曲第7番(1951.5.1Live)を聴いて思ふ

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