晩年のリヒテルは求道者の如く、聖書を携え、日々懺悔を求めたという。
とにかく、懺悔のための静かな部屋の中で、神は私を見ないし、私も神を見ない。だったらこのまま墓まで持っていってしまった方がいい。教会に行ったら、私のために蝋燭を立ててくれ。君が私のために500本立ててくれるなら、懺悔はやめておく。
~ユーリー・ボリソフ/宮澤淳一訳「リヒテルは語る」(ちくま学芸文庫)P267
リヒテルは音楽に真理を求めたのかもしれない(残念ながらそこにはないのだが)。
情熱が内に爆発するリヒテルのブラームス。
ブラームス晩年の可憐な小品たちが、何と美しく、しかも有機的に響くことか。
恐らくリヒテルは懺悔をしながらブラームスを演奏した。自身の内なる神と対話するように、実に静謐でありながら力のこもった演奏であることか。
それにしても1969年のシューマンと、20年の時を経て1989年のブラームスが醸す音調が、不思議に対となっている点が興味深い。まるでリヒテルが仲介者となり、師弟の関係を超え、互いにパッションを交歓するべく時空を超え、音楽によって互いに応答しているかのように聴こえるのである。
シューマンの《幻想曲》だって? あれは、こおろぎの巣だ。なんとも忌まわしい。
弾き方なら心得ている。いいかい、半分目を閉じて弾くんだ。賭けをしないか? 明るいところで10回弾いたあと、暗闇で弾けるかどうかを。
~同上書P27-28
リヒテルの弾く、愉悦に弾けるシューマンがまた素晴らしい。