アルゲリッチ マイスキー ドビュッシー チェロ・ソナタほか(1981.12録音)

自分でよく承知していますが、私はずいぶん批判されています。こういうことは新しいことをすれば必ず起きることですよ。しかし、私が何かを見つけたとすれば、それはまだ誰も手をつけずにいたごく微小なものを見つけたということなのです。びくびくしながら、こっそりあなたに打ち明けますと、私の考えでは、今まで音楽はまちがった原理に立って安閑としていたんです。あまりにも「書く」ことを心がけすぎたのです。音楽を紙のために作っているのですよ。耳のために作られてこそ音楽なのに。
「今日の音楽、あすの音楽」(「コメディア」1909年11月4日)
杉本秀太郎訳「音楽のために ドビュッシー評論集」(白水社)P282

ドビュッシーの嘆きがよくわかる。旧態依然の方法に彼は未来はないというのだ。常に進歩、向上、発展することが人が生きる価値だと言うならば、安閑とはしておれぬ。どんなときも常識を打ち破る勇気が必要だ。

2つの楽章に思念を詰め込んだドビュッシーのチェロ・ソナタの光と翳。
壮年期のミッシャ・マイスキーとマルタ・アルゲリッチの強力なデュオが、その明滅を巧みに描く(何と録音から40年が経過する)。

・フランク:チェロ・ソナタイ長調
・ドビュッシー:チェロ・ソナタニ短調
・ドビュッシー:レントより遅く(マイスキー編曲)
・ドビュッシー:前奏曲集第1巻から第12番「ミンストレル」(マイスキー編曲)
ミッシャ・マイスキー(チェロ)
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)(1981.12録音)

(少なくとも)当時のマイスキーは余計なエゴを出さない。あくまで作曲家の思念を再生することだけに注力する。そして、それを見事にサポートするのが挑戦的なアルゲリッチのピアノだ。第1楽章プロローグ、ピアノによる前奏の力強さ、そして、その後に続くチェロのほの暗い、しかし流麗な音楽に心が高鳴る。第2楽章セレナーデとフィナーレは、ドビュッシーらしい諧謔と冒険に溢れている。まさに枠にとらわれない、耳のために作られた音楽!マイスキーは唸り、アルゲリッチは沈思黙考する。

音楽の書法というものが重視されすぎているのです—書法、方式、技術が。音楽を作ろうとして、観念を心のなかにさぐる。すると、自分のまわりに観念をさがさねばならなくなる。観念を表現してくれそうなテーマを結び合わせ、組み立て、空想のなかでひろげる、ということになる。そしてそういうテーマを展開させ、変形させているうちに、ほかの観念をあらわすような別のテーマに、ふと行き当たる。こうして形而上学が作られます。だが、そんなものは音楽ではないのですよ。音楽なら、聞く人の耳にごく自然に、すっと入ってゆくはずです。抽象的な観念を、ややこしい展開の迷路のなかにさぐる必要などはないはずです。
「今日の音楽、あすの音楽」(「コメディア」1909年11月4日)
~同上書P282

マイスキー編曲による「レントより遅く」も、また「ミンストレル」も(まるで最初からチェロの曲であったかのように)実に自然体。確かにドビュッシーの音楽には抽象的な観念が入る余地なく、ギリギリまで削がれた形の中にあるものだと僕は思う。

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