失ったがゆえの喜びとでも表現しようか。
それは、世界がまったく矛盾の中にあることの証だ。そもそもは誰も持たず、何もないのである。すべては失ったことからが始まりだ。しかも、そのことを実に快活に、また滑稽に音で描いたところがフランツ・レハールの天才。「諸君、喝采を!喜劇は終った」とするベートーヴェンさながら、3つの幕の喜歌劇が大変な勢いと、同時に親しみやすい旋律を伴って歌われる様。何という茶番!!
ペストがウィーンに流行したのは14世紀から。主な流行だけで。1349年、1521年、1713~14年が記録され、一時はヨーロッパの全人口の3分の1が死んだともいわれる。
皇帝レオポルト一世(在位1658~1705年)は流行の兆しとともにワイン600桶をもって、帝国領内にあったプラハに脱出。貴族、上流市民もこれに追随したため、民衆の恐怖に輪をかけた。王家不在で交通、通称もストップ、医師・看護人も患者を診ることを拒否、道端にはひん死の患者や死人があふれた—。
レオポルトは後にペストの犠牲者を悼んで現在も残るペスト記念柱をウィーン市内に立てたが、フーベルト博士は「ペストがはやるとハプスブルク家の人たちはいち早く避難したようです。私の知る限り、ハプスブルク家の関係者でペストで死んだ人は一人もいません」という。
~「オーストリア1000年 ときめきのハプスブルク」(毎日新聞社)P62-64
権力という虚構の中にある人間など所詮そんなものだろう。世界の栄枯盛衰は人間の欲がもたらしたものだ。芸術、特に舞台芸術は、古来王家をパトロンにして成立して来たものだが、ひょっとするとパトロンたるそんな王家を密かに揶揄するためという目的をもった芸術家も多かったのかもしれない(そういう意味で作曲家は誰しも二枚舌だった?)。
第2幕、ハンナと合唱による「ヴィリアの歌」の可憐な美しさ。シュヴァルツコップの情感のこもった歌唱に思わず惚れ惚れする。幾分哀感(?)伴う間奏曲からわずか10分に満たない第3幕への流れが僕好み。例えば、ダニロとハンナの二重唱のワルツの世紀末的な退廃をヴェヒターとシュヴァルツコップが愛らしく表現する様にとても心が躍る。
ダニロ:
くちびるは黙し、ヴァイオリンは囁く。「私を愛して」と。
ワルツのステップはすべてを云う、「私を愛して」と。
ハンナ:
握られた手ははっきりと告げる。
ダニロ:
「それは本当だ、それは本当だ、あなたは私を愛している」と。
ハンナ:
ワルツのステップを踏むたびに、心も共に踊り、ハートは高なり、
「私のものになってくれ」と。
口は何も言わないが、「私はあなたを愛しています」とひびく。
「私はあなたを愛す」と。
(渡辺護対訳)
豪放磊落なマタチッチの棒が、虚構の世界を実に現実的に描く。何より聴いていて楽しい。そこには恣意がないのである。
ウィーンのオペレッタの特色は、パリのそれともひと味違った”粋“な味わい、いわゆる”人情“をおもなテーマとする筋書きにふさわしくただちに情感に訴える旋律の魅力などに加え、”世紀末“という一時代の雰囲気を如実に映し出していたことにあろう。
(濱田滋郎「民衆のなかのオペラ」)
~音楽之友社編「オペラ—その華麗なる美の饗宴」P143
永遠の名盤だと思う。