バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル マーラー 交響曲第9番(1965.12.16録音)

オーケストラの状態は決して最善とはいえまい。しかし、崩壊寸前の世紀末的甘美さという点ではこの演奏に勝るものはないように僕は思う。マーラーの音楽はある意味空前(絶後)ゆえ、激的であるなら多少のほころびは許されるではなかろうか(バーンスタインの指摘通り、彼の音楽は中心から分裂しているのだ)。それにしてもバーンスタインの指揮する終楽章アダージョの説得力はいかばかりか。

マーラーは、あからさまに、中心から分裂している。しかも、彼の音楽では、どんな内容も認識でき、解釈されるという不思議な結果を伴ない、相いれない対立する要素もまた同様である。他の作曲家でこのようなことがいえるだろうか? われわれは、ベートーヴェンを粗野であると同時に男女両性をそなえていると考えられようか? ドビュッシーを絶妙であると同時にけばけばしいと考えられようか? モーツァルトを洗練されていると同時に生硬だと考えられようか? ストラヴィンスキーを客観的だと同時に感傷的だと考えられようか? まったく考えられないことだ。しかし、マーラーは、ユニークにも、次のような要素をすべて包含している—粗野であると同時に男女両性的、絶妙とけばけばしさ、洗練され、生硬であり、客観的で、感傷的であり、向こう見ずで、内気で、壮大で、自滅的であり、確信をもち、不安定で、修飾的かつ対立的。
(レナード・バーンスタイン/三浦淳史訳「マーラーの時代がきた」)
「音楽の手帖 マーラー」(青土社)P96

すべて包含するというその性質の破れかぶれよ。吉松隆が面白い指摘を残している。

マーラーが生前完成した最後の交響曲。シェーンベルクは「この第9番は一つの限界であり、それを超えようとするものは死ぬほかない」とまで言っているのだが、マーラーはこの作品の完成直後、ただちに次の交響曲(未完に終わった第10番)に取り掛かっている。となると、ちょっと違った想像も可能だ。
例えば、声楽付きの暗い交響曲第1作《大地の歌》が《第9番》で、この交響曲が《第10番》、未完で草稿だけ残ったのが《第11番》という観点。そうなると、印象はかなり違う。現状では最後の交響曲ということで、死や現世からの別離をテーマにした辞世のような音楽に聴こえる《第9番》だが、もしかしたら、全体で12曲になる交響曲チクルスの最後の三部作の、その第1曲目だったのかもしれないのだ。

キーワード事典編集部編 作曲家再発見シリーズ「マーラー」(洋泉社)P174

そうなると、これはほとんど数字遊びということになる。すべては結果論に過ぎない。
ただし、マーラーが死に恐怖を抱き、常に死を意識していたことは確かだ。その音楽には生はもちろんのこと、死がいつも描かれる。バーンスタインの演奏には、そのすべてがやはり包括される。生きる希望と死への恐れ、否、逆かもしれぬ。死への希望と生への恐れ。バーンスタインの自虐的な(?)生き方を顧みると、意外にその演奏の芯にはそういう資質が刷り込まれているかもしれない。

・マーラー:交響曲第9番ニ長調
レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック(1965.12.16録音)

うねる、情感豊かな第1楽章アンダンテ・コモド。消え行く、最後の音の粒まで呼吸の深さよ。何という生命力!また、踊る第2楽章の喜び、そして、第3楽章ロンド・ブルレスケの颯爽。白眉は終楽章アダージョ。昔、マーラー漬けだった若いあの頃、僕は寝る間も惜しんで、この音楽に浸っていた。身も心も焼けつくような、熱波を発するこの楽章に、すべてを捧げても良いとさえ思っていた。あれから40年を経て、僕の感じ方は随分変わった。当たり前のことなのだが、もっと冷静なのだ。肉体が滅び、霊性だけになった「もの」には、熱さえない。エネルギーが生まれる前の、いわば真空といわれる状態をマーラーはかくも見事に表現したことか。しかし、バーンスタインの演奏は(ある意味)熱過ぎる(エネルギッシュに過ぎるのだ)。(いやはや、僕のこの文章もかなり分裂気味かも)

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