
確か朝比奈御大は何かのインタビューで、第7交響曲の第1楽章アレグロ・モデラート冒頭の(改訂版にのみある)ホルン・パッセージについて「いったい何なんでしょうね?」と首を傾げていたと記憶する。
近年ではもはやほとんど演奏されることがなくなった改訂版を使用していたかつての巨匠(クナッパーツブッシュやシューリヒト、それにフルトヴェングラーも)たちの演奏にはこのホルン・パッセージがある。
なくもがなといえばそうだけれど、このなんて言うことのないブリッジ・パッセージの効果は相応にあるように僕は思う。



僕がブルックナーの音楽に目覚めたきっかけは、NHK-FMで聴いた朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会(1980年10月での第7交響曲だった。エアチェックをし、くり返し聴いた。僕はこの曲に惚れ込んだ。(後にわかったことだが)ハース版の墨絵のようなシンプルで静謐な壮大さに心を奪われた。その後、シューリヒトやマタチッチ、あるいはヨッフム、フルトヴェングラーなど、数々の演奏を聴いたけれど、僕の中で第7交響曲の解釈はいまだに朝比奈御大がベストである。

久しぶりにマタチッチを聴いた。
45年ほど前に手に入れたスプラフォンのアナログ盤。何と2枚で¥4,600!!(隔世の感あり)
クナッパーツブッシュの解釈を踏襲するかのようなマタチッチの指揮に、あらためて第7交響曲の素晴らしさを実感した。ブルックナーの交響曲の中でも随一を誇る流麗さ、そして旋律の美しさを、マタチッチは(朝比奈御大同様)武骨に、しかしながら正統に歌い上げるのだ。
この録音にももちろんホルンのブリッジ・パッセージがある。
あまりに自然体の、宇宙の根源から自ずと湧き上がるような演奏に、このパッセージは必然のようにも思われた。朗々と奏される音楽には、どこか悲壮感も漂う。
悠揚たる第2楽章アダージョは絶美(しかし、クライマックスにおける打楽器やシンバルなどは不要だと僕は思う)。
崇高と滑稽とは、美的仮象の世界を一歩超え出たものである。というのは、この両概念のなかにはともに一つの矛盾が感得されるからである。他面またこれらの概念は、真理とは決して一致しない。これらは真理の被覆であって、この被覆は美よりも透けてはいるが、しかしやはり被覆たることには変わりはない。すなわち、われわれはこれらにおいて、美と真理との間の中間世界を持つのである。ディオニュソスとアポロンとの融合が可能となるのは、この世界である。この世界が示現されるのは、陶酔との戯れにおいてであって、陶酔によって余すところなく呑み尽くされた状態においてではない。
「ディオニュソス的世界観」第6節から(1870年夏)
~塩屋竹男訳「ニーチェ全集2 悲劇の誕生」(ちくま学芸文庫)P245
陶酔との戯れ! ニーチェの至言!
第2楽章アダージョの崇高さ、そしてまた第3楽章スケルツォに見る滑稽さ。美と心理の間の中間世界の体現こそブルックナーの真髄ではなかろうか。ニーチェの言葉を借り、僕はそう感じた。
「宇宙の鳴動」とはよくも言ったものだ。
慌てず、急がず、マタチッチはこのスケルツォを堂々と奏でる。なるほど、緊張感のある静けさの中での崇高さの体感はトリオにあった! 見事だ。さらに、終楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポは、呼吸の深い、ためのある、輪郭の明解な、実にリアルな音像が強調された音楽。

