壮絶なドキュメントだと言えば、確かにそうだ。
極めてコアなファンはおそらく絶賛するのだろうと思う。
トルソーでありながら、指揮者の、奏者の息遣いまでもが克明に記録され、ワーグナーの書いた音楽の音符一つまでもがリアルに再現される様とでもいうのか、70余年前にタイム・スリップし、その日、その場で聴いている感覚で対峙すれば、途方もない充実感に襲われるだろう。ついにフルトヴェングラーがオペラの舞台に復帰したのである。すわ、一大事。
一世一代の「トリスタンとイゾルデ」は、アドミラル・パラストでのライヴ。
残念ながら第1幕のすべてと第2幕、第3幕のそれぞれ少々が欠けているが、もはやそういう問題ではない。陶酔の第2幕に心が融けそうになった。
この頃のフルトヴェングラーの胸中はどんなものだったのか?
ナチスに迎合したという罪で裁判にかけられるも有罪判決を逃れた彼は1947年、舞台に戻った。彼への勝算がある一方、批判も絶えなかった。文豪トーマス・マンもフルトヴェングラーを非難した側だ。
ひとと論争をすると、こんなにも話がすれちがうものかとの感に堪えません。私からみれば、このような態度は、鼻もちならぬパリサイ主義であるばかりでなく、まったくもって非生産的なことです。・・・人々は私のような人間は抹殺してしまうか、10年間も文化活動から追放しなければならないと考えているのでしょうか? そもそも、あの不遜な「是認できない」という言葉はどういうつもりなのでしょう? ここで問題になっている事柄にたいする基本的な態度に関するかぎり、おたがいにほとんど食い違いのないことは、トーマス・マンもよく心得ているはずなのですが、そういう二人の人間が、違った道をたどりながらも、結局は同じ目的地に達するというわけにはいかないものでしょうか? 徹底的に非難し合うことなどはやめにしてです。なんと笑止千万で、酷薄で、非キリスト教的で、愚かしい、そのうえ人の心理を解し合うことのつたない世の中なのでしょう。
(1947年7月26日付、エーミール・プレートリウス宛)
~フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P198-199
ここではフルトヴェングラーの良心が確かに動いているようだ。しかし、マンとはそもそもの思想や価値観が異なるのだということを忘れてはなるまい。
ワーグナーの大言壮語、いつまでもつづく熱弁、独占的に語ろうとしたり、何にでも口出ししたがる態度のなかには、名伏しがたい不遜さがひそんでいます。これをヒトラーは手本としています、—たしかに、ワーグナーのなかには多くのヒトラー的なものがあります。あなたはこれを省きました、当然省かざるをえなかった。あなたは、あなたの崇めるこの作品をどんなにかヒトラーと結びつけるべきであったのに! それは充分に長い間ヒトラーと結びついていました。
今わかったことですが、形而上学的な歓喜の糸で織りなされた「トリスタン」第2幕は、性欲についてなんの知識もない若者たちにとって、はるかに重要なものなのです。しかし、最近私が写実的な劇作法のしてある第1幕を再び眼前に思い描いたとき、わたしは完全に感激してしまいました。
(1949年12月6日付、トーマス・マンからエーミール・プレートリウス宛)
~トーマス・マン/小塚敏夫訳「ワーグナーと現代」(第2版)(みすず書房)P220-221
当時のマンは「トリスタンとイゾルデ」を完全に(?)否定した。おそらくそこには。巡り巡ってユダヤ人としての自身の境遇から生じたヒトラーへの個人的な否定感もあったことだろう。マンは果たしてフルトヴェングラーの「トリスタン」を聴いたのだろうか?(もちろん聴いてはいるだろうが)
官能の極致の第2幕が堪らない。誰もの指摘通り、シュリーターのイゾルデは確かに弱い。しかし、ズートハウスのトリスタンとの交わりの圧倒的興奮は、もちろんフルトヴェングラー指揮するベルリン国立歌劇場管弦楽団の力量の成せる業だと思うが、いずれにせよワーグナーの音楽の毒よ。この日を待ちに待った聴衆の歓喜の念も合わせて伝わるのか、音楽の熱気と言い、うねりと言い、数多の「トリスタン」の中でも1,2を争うものに違いない。
そして、一層充実の第3幕!第2場、トリスタンの断末魔的歌唱「おお、この太陽!」の圧倒、そして、「トリスタン!愛する人!」と駆けつけるイゾルデに抱かれ、息絶えるトリスタンの無念。最後、シュリーターは大いに健闘する。「イゾルデの愛の死」の神々しいばかりの熱唱よ。