古い録音から立ち込める香気。
シャコンヌの最初の録音は、今から100年近く前のことだが、アドルフ・ブッシュの独奏によるそれは、何と清らかで、何と温かい音楽であることか。名演、好演という意味では、以後の録音に凌駕するものは多々あるけれど、それでも人類史上第1号となるこの録音の価値は大いにあることと思う。
よい音楽を書くことは神への讃美でもあるとバッハは考えていたにちがいないと、私は思う。当時の音楽理論書をひもといてみると、音楽の目的として、2つがあげられている。神の讃美と、心の慰めである。これは必ずしも、宗教音楽の目的が神の讃美で、世俗音楽の目的が心の慰めであるということではない。どちらの音楽も究極においては神を讃えるべきものであり、神の心にかなう音楽によってこそ人は真に心の慰めを得ることができる、という考え方が、その背後に存在する。問題となるのは、音楽の良し悪しだけである。
バッハにとっては、宗教音楽も、世俗音楽も、ひとつのものであった。どちらに対しても、バッハは、職人的な良心をもって、最善を尽くした。だからこそバッハは、どちらの楽譜にも、冒頭に”Jesu Juva”(イエスよ、助けたまえ)、末尾に”Soli Deo Gloria”(神のみに栄光あれ)というサインを、おりおりに書きこんだのだろう。スメントによれば、バッハの遺産において、世俗音楽と宗教音楽に何らかの区別が行われていた形跡はまったくない。
~礒山雅著「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」(東京書籍)P112-113
問題となるのは、音楽の善し悪しだけだと、礒山さんは書く。
そもそも何においてもカテゴライズすることを好むのは人間の浅薄な知恵以外の何ものでもなかろう。
清廉な、一切の感情を捨てた無伴奏作品に対して、浪漫香る、ルドルフ・ゼルキンとのソナタの生命力よ。
ソナタホ長調第4楽章アレグロでの弾ける悦び。そして、ソナタハ短調第1楽章シシリアーナでの哀愁感は、若きゼルキンの闊達なピアノを得ての対照だろうか。いずれにもアドルフ・ブッシュの心がこもる。