華やかさの欠片もない、色香すら感じさせないモノトーンのショパン。
リヒテルの弾くショパンは、なんて孤独で切ないのだろう。それはまた、枯れた味わいともいうような、心に迫る音に支配される。
リヒテルの回想。
「これはおまえが大好きな松の木だよ。横になりなさい。暖かい毛布を掛けてあげるから。」
暖かい毛布は大好きだった。私はそこに乗り、横になった。そして堅い板の上で満足して眠った。以来ときどき堅い音を出すのは、その思い出があるからさ。
これは夢のまた夢。私の夢は、ショパンの夢の中にある。
~ユーリー・ボリソフ/宮澤淳一訳「リヒテルは語る」(ちくま学芸文庫)P314
これを読んで僕はほんの少しだけれど謎が解けた。そして納得した。
リヒテルの弾くショパンは夢想の中にあるのだ。
リストのソナタロ短調が素晴らしい。自然体の中にある魔性とでもいうのか、リヒテルにしか成し得ない毒がここには間違いなくある。とにかく30分があっという間であり、また繰り返し聴きたくなるという始末。
私がリストでファウスト的だと思うのは、ピアノ・ソナタロ短調の方だ。だが『ファウスト』の第一部ではない。第二部だ。そしてこのソナタで私の好きな場所は、「仮面舞踏会」だ(第1主題が再現する前の部分を指す)。“誰”が現われるかって?—奇妙な花束、薔薇のつぼみ、群衆の不満の声、女どもの無駄話—みんな『ファウスト』に出てくる。
私が好きなト書きはこれだ—「ファウストはすっかり老いた」(第二部第5幕「宮殿」の場面冒頭)。ゲーテによれば、終幕においてファウストは100歳になったそうだ。このソナタを、そう、90歳で弾けたら素晴らしいだろうな。
~同上書P309
リヒテルの直接の言葉を読んでやはり納得した(90歳での演奏は叶わなかったけれど)。
リヒテルの演奏はたぶんに文学的なんだ。まるで物語を音によって描くかのように淡々と、しかし、ときに感情を込めて歌い、爆発する様よ。
俺は世界を駆け抜けた。
快楽だったらむんずと摑み
つまらぬものは突っ放し
逃げたものは勝手にさせた。
熱望 成就 更にまた
望みを重ね 力でもって
わが人生を嵐と生きた。まずは勢いと力にまかせ
いまでは分別 落ち着きを忘れない。
地上のことはもう充分に知り尽くし
天上は所詮 われらが視線の届く場所ではない。
何たる馬鹿か しばたく眼を上へ向け
雲の上に人間めいた連中がいると妄想するとは!
地上に足を踏みしめ しっかりと見廻すのだ
力ある奴にはこの世界が語りかける。
永遠の境を彷徨うなどは不要のこと
この世界で認識したことならば、この手にしっかり獲得できる!
この地上の日々は そう暮されねばならぬ
悪霊どもが現れても その道だけは違えるな。
自ら進む道の先にこそ苦痛を求め 仕合わせを探せ
それが どの瞬間にも満足せぬものの生き方だ!
~ゲーテ/柴田翔訳「ファウスト 下」(講談社文芸文庫)P465-466
老いたファウストの孤高をリヒテルは文字通り描くのだ。漆黒の闇夜から一条の光が差す瞬間の恍惚よ。
なぜごく幼い頃から私の心の中にはあんなに悲しみに飢えた本能があったのだろう?なぜに私の思いは木蔦にも似て、廃墟に、腐った幹にからみつくのだろうか?そんな幹は虫に食われ冬の最後に一陣の風が吹けば崩れてしまうだろう。どうしていつも墓場を彷徨い、何度も読んだ墓碑銘をまた読むのだろうか?それはしかじかの日に私の中で聖なる無知が死に、さる別の日に希望が、また別の日には心の若さが死んだのだと、告げている・・・なぜ鶫が探しに行く餌は杜松の苦い実なのだろう?鶫のように私の魂は苦い思いしか飲み込もうとしない・・・
(1841年10月23日)
~マリー・ダグー著/近藤朱蔵訳「巡礼の年 リストと旅した伯爵夫人の日記」(青山ライフ出版)P360-361
ファウストは「永遠の境を彷徨うことの不要」を説き、一方、ダグー伯爵夫人は繰り返される過ち、迷いに対し自省する。ソナタの完成はこのずっと後のことだが、リストにはワーグナー同様、女性を翻弄する毒があった。もちろんその音楽に色香は自ずと創出される。リヒテルの演奏は、そういう色香をスポイルし、純白の、無我の境地を描き出す。