宇野功芳指揮新星日本響 ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」(1990.6.24Live)

実に邪道なのだけれど、作品を線で捉えるのでなく、点で捉えてみたとき、この演奏から、それまで見えなかった、気がつかなかった一種の気迫が見え、そして、音楽の持つ魅力が一層浮き上がる。フレーズとつながりが絶対の、つまり、時間芸術である音楽を切り刻んで、その一部を堪能するという行為は神聖なる作品への冒瀆行為だと言われればそれまでだ。しかし、この演奏に限っては、変態、奇天烈と烙印を押して取り下げるにはもったいなく、とはいえ、真面に聴いたのでは一般に受け容れ難く、長い間、僕は思いを綴ることを逡巡していた。久しぶりに聴いて、僕は率直に「素晴らしい」と思った。おそらく当日、その場に居合わせた聴衆がのけ反るほどの感動を体験したのは間違いないだろうと僕は思う(宇野教の信者ばかりであっただろうし)。

この演奏にまつわる指揮者本人の言葉が非常に参考になる。

時代がクールで無個性になりましたからね。日本だけの現象ではないんですね。でも芸術というのは個の告白です。自分はこう思う、こう感じる、というのが芸術の始まりで、その世界からいちばん遠いのが平均化ではないでしょうか。
(宇野功芳+玉木正之 対談「芸術とは娯楽である」)
宇野功芳「交響曲の名曲・名盤」(講談社現代新書)P252

立場や肩書や、後天に属するすべてを横に置いて、素っ裸になって自らを表現すること。現代を生きる僕たちが失くしたであろう大切な何かがここにはある。

でも「英雄」なんかの演奏となると、世界一になりたいと思っても、まあ、なりようもないわけでね(笑)、そうすると、第1楽章の展開部のところだけは、フルトヴェングラーじゃ物足りないから、おれがもうちょっとやってやろうとか、とにかく、何かで一番になりたいと思いますね。
~同上書P253

すべてはモデルがあってのいわば似非だ、模倣だ。模倣のコラージュであるがゆえにそれがまた一つの個性と化すのである。これぞ見事なアウフヘーベン(止揚)。

だから、僕は、自分の「英雄」の演奏を批評できますよ。例の第1楽章がいまにも終わるという、いちばん盛り上がった最後の部分で、フニャ~というはずし方をしてるでしょ。あれは批評家としては絶対に許せない(笑)。あれは、やりすぎですよ。でも、演奏家の僕としては、やらずにいられないんだなあ(笑)。どんなに考え抜いて、まずいかなあと思っても、一度はやらないと気が済まないってことが、演奏家にはあるんですよね。まあ、今度から、あの部分だけはやめますが(笑)。
~同上書P254

自己批判すら辞さない積極性、主体性、というか冒険こそが革新の源泉。

やっぱり楽譜忠実主義というのがよくないんですよ。楽譜に忠実に、といったところで、楽譜という記号自体が、いろいろな解釈が可能な範囲でしか音楽を記録に残せない。にもかかわらず、楽譜に忠実に、という旗印を掲げると、妙に去勢された音楽しか生まれなくなる。僕だって、楽譜をよく見て、何度も読み直して、忠実にやってるつもりなんですよ(笑)。でも、楽譜に忠実でなければならない、とか、これこそ正しいベートーヴェンだ、なんていい方は、絶対にしませんよ。だって、残された記号だけから、どれが“本当”か、なんていえませんからね。かりに正しい演奏というものがあったとしても、感動的でなければどうしようもない。音楽には、美しいか、そうでないか、素晴らしいか、そうでないか、という価値判断しかないでしょう。にもかかわらず、楽譜忠実主義なんていう、権威のようなものを持ち出すからおかしくなるんです。
~同上書P261

宇野さんは、音楽が、言葉にならない真理の追究なのだと教えてくれる。楽譜はいわば「教え」に過ぎない。ただし、それは何でもありだというのとは違う。楽譜から何を読みとるか。それこそが指揮者や演奏家の力量なのである(その意味では宇野さんの演奏も自己流、我(が)の解釈だけれど、笑)。

ベートーヴェン:
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(1990.6.24Live)
・交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」第1楽章&第2楽章リハーサル風景(1989.12.17Live)
宇野功芳指揮新星日本交響楽団

いずれも東京はサントリーホールでのライヴ録音。
テンポの異様な伸縮、楽器の扱いの異様なバランス、驚くほどのデフォルメなど、「おかしさ」「変態さ」は枚挙に暇がない。しかし、初めて聴いた30年前の違和感は今の僕にはない。少なくとも、他の誰も成すことができなかった独断と偏見に満ちた斬新な「英雄」が正規音盤として残されたのだから、その事実だけでも大拍手喝采だ。

一昨日の22日に、日本のオーケストラ界のために大変尽力されました渡辺暁雄さんが亡くなりました。それで、これからの「葬送行進曲」を渡辺さんに、オーケストラ共々捧げたいと思います。

第2楽章「葬送行進曲」の前に、コンサートのちょうど2日前に亡くなった渡辺暁雄氏への追悼の辞が指揮者本人によってなされており、そのシーンも録音されている(想像以上に高く細い宇野さんの声に当時僕は驚いた)。確かにこの楽章は相当の思いがこもったもので、実演ならば相当感動的だったと思われる。

ちなみに、付録の「第九」リハーサルも、一旦徹底的に破壊され、宇野流に再構築された代物だが、その音は実に有機的に聴こえる(少なくとも僕の耳には)。第1楽章終結は相変わらずヒョロヒョロ~というはずし方をしているのが聴きもの。まさに自由の精神に満ちる「第九」だといえる(しかし、残念ながら謙虚さはない)。

芸術にいちばん必要なのは自由の精神だけど、それと同じくらい必要なのが謙虚さですね。神に与えられた才能というか、結局は神様の力でやっているようなものですから。人間の力なんて小さいものですよ。
~同上書P266

自由の精神と謙虚さ。
宇野さんは、いかにも「天人合一」を標榜するが、しかし、出てきた音楽は、さすがに録音ともなると恣意性を感じさせずにはいられない。たとえそれでも、宇野さんの言葉を信じ、そして彼の遺した奇妙な演奏(?)を僕は一期一会で楽しみたい。そんなことを思わせてくれる演奏。

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