ワルター指揮ニューヨーク・フィル ハイドン 交響曲第102番(1953.2.18録音)ほか

ブルーノ・ワルター指揮するハイドンの交響曲はどれもが実に魅力的。
外面は堂々たる風趣を醸し、しかも内側から発露される音調は優雅でとても心地良い。これほど自信に満ちた演奏は他にないのでは、と思わせるくらい。

そもそも作品がとても魅力的。幽玄かつ魔性を帯びた序奏部ラルゴから一転、明朗快活な主部アレグロ・ヴィヴァーチェに移って、華麗かつ奧妙な旋律目白押しの、第102番変ロ長調第1楽章から、哀感漂う第2楽章アダージョの慈しみ。

はじめてヨーロッパを去ったあのときから、すでに自分の根が終局的にたたれることが問題だったのであり、それは当時、自分の本質からいって定めとなっていた使命を永遠に断念するところまで進んでいたのである。この使命というのは、ひとつの文化機関の守護者、維持者となり、自分の心臓の力によってその血液を循環させ、美辞麗句を用いるなら、それを《いつくしむ》ことであった。ヨーロッパでこのような根のおろし方のできる時期は、私にとって過ぎ去っていたのである。それを私は、漠然と感じていた。アメリカでそこの重要な芸術機関のひとつにあらためて自分を集中させることになるかどうか、これも不確かに思われた。だからあとになってみれば、あのときの憂鬱な離別の感情は、芸術的定着性への訣別であり、《おのれの土壌》を耕すべく定められた自分の最良の力を、もはや完全には使うこともできない流浪の旅のはじまりだったのである。じじつあれ以来の私は、異人であり旅人であるにすぎなかった。
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏—ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P327

アメリカ合衆国でのワルターの活躍ぶりの源泉には、彼の複雑な、憂鬱な感情の発露があり、それを超えようと、打破しようとした思惑があった。ヨーロッパ時代の彼の演奏と、ヨーロッパを後にした後の演奏では良くも悪くも明らかに異種だと思われる面は、彼のそういう思念から生じているのである。典雅なハイドンを卒業し、古典を逸脱するような巨大な、器の大きいハイドンは、ことによるとモーツァルト以上に魅力的だ。

ハイドン:
・交響曲第102番変ロ長調Hob.I:102(1953.2.18録音)
・交響曲第96番ニ長調Hob.I:96「奇蹟」(1954.11.29&12.6録音)
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック

「奇蹟」は、フルトヴェングラーの死の前日と死から1週間後に分けて録音された代物(もちろん偶然だが)。重い、しかし外に弾ける、壮大な楽想と音調は、ワルターの棒によってハイドンの新たな側面を描く。そして、第2楽章アンダンテにおける独奏ヴァイオリンの可憐さはいかばかりか。

ちなみに、ワルターの、フルトヴェングラー追悼の辞には次のようにある。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの死は音楽の世界にとって重い損失だったというほかありません。氏の魂の故郷は偉大な古典音楽の領域でした。深い芸術性とすぐれて人間的な人となりとが一身に結びあわされて、氏は現代の楽壇において最も重きをなす人物のひとりとなったのでした。そのころハンス・プフィッツナーの指揮下にあったシュトラースブルク・オペラに新進の見習い指揮者としてはいって来られたとき、わたくしははじめて氏を知りました。当時21歳くらいだった氏は、じつに高邁有為な青年でした。あのときの印象はいまだによく記憶しております。その後の異常な成長ぶりも記憶に鮮やかで、見習時代の予測を十二分に充たしたと断言してはばかりません。一点の疑いもなく、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのなかには偉大さが宿っていたのです。音楽のなかに偉大なるものに表現を与えることを可能にするような偉大さが。
マルティーン・ヒュルリマン編/芦津丈夫・仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーを語る」(白水社)P24

いかにもフルトヴェングラーの常人を絶する進化と発展をワルターはまざまざと見せつけられたのだろうと思う。果たして「奇蹟」のどの部分が11月の収録で、どの部分が12月の収録であるのかはわからない。ただ、少なくともアンダンテ楽章の寂寥感溢れる美しさには、ワルターのフルトヴェングラー追悼の念が反映されているとしか僕には思えない。

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