カラヤン指揮ウィーン・フィル ブルックナー 交響曲第9番(1976.7.25Live)

ライヴのカラヤンは、時に我を忘れて音楽に没入するようで実に激しい。
音の響きを重視する彼でも、本番においてはつい乱れる箇所があるのは当然で、しかし、それだからこそ一層人間的で、また熱い演奏になるのだから、意志とは別に天の案配というのか、一期一会的演奏が素晴らしいのである。

カラヤンはいつもひびきの美しさに重点を置いていた。この美しさが得られないとき、彼は即座に流すのを中止して、思い通りの成果が得られるまで、オーケストラを徹底的に訓練した。
ルーペルト・シェトレ著/喜多尾道冬訳「指揮台の神々—世紀の大指揮者列伝」(音楽之友社)P330

カラヤンが最も光輝を放っていた時代は、オーケストラとの最善の関係を構築できていたときだ。どんな優れた手腕を持った人間でも謙虚さを忘れたときに禍が降ってくる。

1982年まで、カラヤンとベルリン・フィルハーモニーとの関係は、いいことずくめだった。これは不思議でもなんでもない。両者の協力体制は、いわゆる「蜜月関係」と呼ぶものに等しかった。マエストロは相手にひもじい思いをさせなかった。トップクラスのギャラに加え、レコード録音やフィルム制作から入る印税で、リッチな暮らしが保証された。カラヤンは何十年もの蜜月関係のなかで、このオーケストラの技術を華麗に磨き上げた。どこから見ても申し分なく、彼の個人的なひびきの好みにぴったり合うものとなっていった。彼は1961年から」、いつも楽旅を行ない、わずかな例外を除いては、この卓越した楽団をベルリン以外では他の指揮者の手に委ねようとはしなかった。このたっぷり利益を生む相互関係で、カラヤンはオーケストラの自主権をまったく無視し、演奏会でだれを使うかを自分で決める権限を行使するまでになっていった。
~同上書P371

偉大な指揮者もある日突然陥穽にはまるのである。
同じ意味でウィーン・フィルとの関係も決して常に良好というわけではなかった。

両者の関係が正常化したのは、1956年。カラヤンがウィーン国立歌劇場音楽監督(1956-64)に就任したのがきっかけとなり、コンサート活動を通じてのウィーン・フィルハーモニーとの関係も、再度密接になってゆくのである。しかし、やがてはカラヤンと歌劇場長との対立が表面化してくる。これは結局、カラヤン辞任の形で決着がついたが、そうした状況では、ウィーン・フィルハーモニーとしてもカラヤンの側に立つわけにはいかなかった。その後からやなは、1967年自ら創設したザルツブルク復活祭音楽祭にウィーン・フィルハーモニーを招こうとしたが、やはり実現せず、ここに新たな「氷河期」が始まるのである。両者の共演の場は、1973年まで、ザルツブルク音楽祭でのオペラおよびコンサートに限られてしまった。
(クレメンス・ヘルスベルク/鳴海史生訳「カラヤンとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団」)
POCG-2625ライナーノーツ

たえず人間関係の中で争いや諍いを持っていたカラヤンの個性こそ、善かれ悪しかれ音楽に投影される個性そのものなのだと思う。

マエストロは死後、情け容赦ない批判にさらされることになる。生前はだれもが神格化し、全権をふるった支配者を、今度はそれとおなじ程度に徹底的に貶めようというわけだ。
ルーペルト・シェトレ著/喜多尾道冬訳「指揮台の神々—世紀の大指揮者列伝」(音楽之友社)P376

日常茶飯事的事実と音楽とはまったく関係はないように見える。見えるけれど、あらためて激するブルックナーを聴いてみると、やはりそこには高邁な、支配的な音響を感じなくもない。それが、野人ブルックナーの本質を壊してしまっているといえば、確かにそうだ。しかし、たとえそうだとしても、ここに表現される生命エネルギーたるや並大抵でない。ブルックナーが、まだまだ生きようとする意志、生きたいと願う希望が見事に反映される。

・ブルックナー:交響曲第9番ニ短調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1976.7.25Live)

ザルツブルク音楽祭は、フェストシュピールハウスでのライヴ録音。
第3楽章アダージョの、まったく枯れない熱量が凄い。

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