
1891年、ベートーヴェンの墓が中央墓地への改葬のため掘り起こされた。遺骨が遺体安置所に運ばれ、医師たち計測を受けた際、ブルックナーはそこへ押し入り、ベートーヴェンの頭蓋骨を両手に捧げ持ったといわれる。何という悪趣味か。
彼はこの3年前、シューベルトの遺骨が改葬された時も、その頭蓋骨に手を触れている。彼には頭蓋骨や死体に対する奇妙な執着があった。
~田代櫂「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」(春秋社)iii
ブルックナーが生涯を通して尊敬したのはベートーヴェンとシューベルトだった。いわばこの2人の天才たちの遺伝子を真に受け継ぎ、止揚を経て、世に現われたのが孤高の天才アントン・ブルックナーだったのかも。
喜多尾道冬さんは、最晩年のシューベルトはいわば孤独のセラピストであり、自らを自らの音楽で癒したのだと書かれている。それこそ「自己親和への道」なのだというのである。とても納得した。
シューベルトの晩年の音楽は一見したところ晦渋だ。これまでだれも見たことも聴いたこともない内面的な世界へ入っていくため、モーツァルトやベートーヴェンのソナタ形式に親しんでいたものには、ついてゆきにくい一面があるかもしれない。しかしシューベルトの音楽は、ソナタ形式ではもはや解決できなくなった都市住民の心の奥深くにひそむ葛藤や憂悶に気づいてゆき、それをいかに解決するかに向かう。それは、ほとんど精神分析療法とさえ言えるほどだ。
~喜多尾道冬著「シューベルト」(朝日新聞社)P276
永遠に広がる「歌」が美しい。理路整然と構築されるソナタ形式という「枠」を超えた自由自在の「歌」。確かに自身の精神を癒すために書かれたものだといってもおかしくはないくらいすべてがあまりに美しい。
肉体を離れ、いわば魂だけになる目前のシューベルトというより、健全な肉体を持ったシューベルト。ツィマーマンの奏でるシューベルトは楷書体だ。もう少し奔放に、自在に飛翔しても良いように思うのは、あくまで個人的な好みの問題だろうか。現在同様30余年前の彼も、作品を徹底的に勉強し、憶え込むまで時間をかけレパートリーに加えるというのだから、リリースされた録音は(その時点では)渾身の出来だったということだ(果たして今なら彼はどんなシューベルトを奏でるのか?)。
力強く閉じられるD899第2番変ホ長調の激性と、柔和で夢見るようなD899第3番変ト長調の対比。夢か現か、シューベルトの神性をツィマーマンは見る。あるいは、D935第2番変イ長調に垣間見る自信と希望、そして、D935第3番変ロ長調の可憐なロザムンデの歌が実に美しい。