ハーディング・新日本フィルチャリティーコンサート

総武線各駅停車が止まっているということで、開演前に事務局長から開始を10分送らせていただくというアナウンス。今回のコンサートの趣旨が特別だということもあるための急遽対応策なのだと。なるほど、こういう突発的な出来事もライブならでは。確かに一人でも多くのお客様に接していただきたいという指揮者と楽員の気持ちはわかる。なお、主演目の前に、震災で亡くなられた方々への追悼の意を込めてエルガーの「エニグマ」変奏曲から第9変奏曲「ニムロッド」が奏されるとのこと。
心静かにその時を待った。

ハーディング・新日本フィルチャリティーコンサート
3.11東日本大震災、明日への希望をこめて

2011年6月20日(月)19:25開演
すみだトリフォニーホール
・エルガー:創作主題による変奏曲「エニグマ(謎)」作品36~第9変奏曲「ニムロッド」
・マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

当初のプログラムには掲載されていないエルガーから。厳粛な空気に包まれながら、微かな弱音から既に有機的な響きが。涙しそうなほどの弱音で、想いがこもり、息を飲む。全合奏の部分では、楽員ともども指揮者は全精力を傾けて「祈り」を捧げる。弦楽器の囁きと慟哭と・・・、聴衆の微動だにしない静寂の中、楽音は一音一音確かめられるようにゆっくりと進行してゆく。
そして、腕が下ろされ、1分近く経つだろうか・・・、黙祷を経て、指揮者が舞台下手に下がるややっと聴衆の呼吸音とざわめきが聴こえる。

熱烈な拍手に迎えられ、再びダニエル・ハーディングが登場。ゆっくりと降り下ろされた棒の先から、首席トランペット奏者の例のファンファーレ(実はこの人、妻の県芸時代の同窓らしい。いつぞや久しぶりに電車の中でばったり会って、新日本フィルに在籍していることを聞いたらしい)。第1楽章、葬送のための行進曲・・・(メンデルスゾーンの「結婚行進曲」を意識したのか、それとも無言歌集の「葬送行進曲」からの引用なのか、そのあたりの議論は横に置いて、昨晩の演奏は僕には不思議に明るく感じられた)。そして、第2楽章、第3楽章・・・と淡々と(しかし強い意志をもって)音楽は進み、アダージェットの最後の響きとフィナーレのホルンの音が重なるところで、一条の光が見えた(ように感じた・・・笑)。そこで僕が思ったこと。

この作品は、少なくとも前半3つの楽章はアンナ・フォン・ミルデンブルクとの完全別離を示唆する葬送であり、メッセージではないのかと。そして第4楽章アダージェットとフィナーレこそがアルマへの愛と未来への希望を表す心情を表すのではないのかと。ハーディングはこの交響曲の中に、愛、悲劇、生命と死を見出すが、意外にそんな大袈裟なものではないのかもと。俗物グスタフ・マーラーの複雑な女性関係の単なる個人的メッセージがこのように大仰に捉えられるところがまた道化師的で面白い。

久しぶりに体験した第5交響曲の実演だが、音量、バランスともメリハリの効いた解釈は指揮者の真骨頂といえるもので、支離滅裂で分裂気味のこの大交響曲の細部がいかにも有機的に連関しており、実に興味深い作品であることが初めて理解できたような(笑)、終演後、あらためてそんな気分にさせられた演奏だった。それと、オーケストラがはけた後も、帰らない聴衆に舞台に呼び出され、盛大な拍手を浴び、謙虚な姿勢で舞台に下がった直後、今度はコンサートマスターの崔文洙氏に抱き抱えられるように無理やり表に出され(笑)、再び2人して指揮台上で喝采を受ける姿を見ていて、この音楽の解釈には随分コンサートマスター(&オーケストラ)の意見も入っているのかもなどと勝手に空想した。いずれにせよ、指揮者ダニエル・ハーディングと新日本フィルハーモニーが真に一体となって演奏した一期一会の最高の音楽だったということ。それは事務局長の言葉を借りるまでもなく、やっぱり「特別な」一夜だったということである。


2 COMMENTS

雅之

こんばんは。
羨ましいですね。ハーディングのマーラー、私は2008年の2月にサントリーで東フィルとの6番を聴いていて、これも名演だと思いましたが、今回聴かれた5番は新日フィルですし、さぞかしもっと名演だったことでしょうね。

マーラーの5番や6番では、20世紀の歴史を予言しているような場面が多いと思っています。5番では大戦の葬送で始まり、戦後の爆発的な経済成長とか・・・。

そういえば、また昨日の話題の続きですが、ロスチャイルドはユダヤ系ですし、ロックフェラーも「隠れユダヤ」系だといわれたりもします。E=mc²のアインシュタインも、「原爆の父」オッペンハイマー( 1904年生まれ!)もユダヤ人、共産主義の理論的指導者、カール・マルクスもユダヤ人。

>首席トランペット奏者の例のファンファーレ(実はこの人、妻の県芸時代の同窓らしい。いつぞや久しぶりに電車の中でばったり会って、新日本フィルに在籍していることを聞いたらしい)。

素晴らしいです!! マーラーとユダヤ繋がりの話題で、マラ5冒頭同様トランペットの超難所として知られる、二人のユダヤ人「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」(シュムイレ=弱音器をつけたトランペットソロ)なども、きっと見事に吹かれることでしょうね。
http://www.youtube.com/watch?v=zdnjTJBcbjU&feature=related

ところで、《プログラム連載エッセイ 1 /「新日本フィルハーモニー交響楽団」 2003年10月号》『作曲家をめぐる〈愛のかたち〉』
http://ondine-i.net/column/column057.html
で青柳いづみこさんは、こう書いておられますよね。

・・・・・・やはりアルマとの新婚生活のさなかに『交響曲第5番』を書いていたマーラーのケースは、もっと複雑だ。作曲家が41歳のときに結婚した19歳年下のアルマは、ツェムリンスキーに師事した作曲家の卵で、すでに自作の楽譜も出版していた。しかし、シューマンとクララの夫婦の絆が、クララの作曲願望によって妨げられたと考えたマーラーは、新妻に作曲を禁じ、もっぱら写譜職人をつとめるように命じたのである。

 最初の子供を妊娠中だったアルマは、マイアーニッヒに滞在中、作曲小屋から5番のスケッチを持ってくる夫を迎え、完成した部分をせっせと総譜の形に書き写した。
夫は、書き終えたばかりの箇所をピアノで弾いてきかせる。作品の誕生の瞬間。妻は、自分が気に入った部分はすぐにほめたが、注文をつけることも忘れなかった。たとえば、終わりのコラール風の箇所。「これは教会風でおもしろくないコラールだこと!」マーラーは抗議する。「でもブルックナーをごらん!」

 同業者同士の緊張を感じる夫。一方的に奉仕させられる妻。そんな中で作品は完成された。『グスタフ・マーラー辞典』の著者ジルバーマンは、多くの論評者が5番の交響曲に恋愛感情の発露を見ようとするのは間違いだ、と語る。なるほどマーラーは、彼の音楽に魂のすべてを、とりわけ「憧憬」を注ぎ込んだ。しかしその『憧憬』はより次元の高い普遍的なもので、個人的な体験が音楽表現に影響を与えることはなかった。「彼の筆によってシューベルト的な意味での愛の歌が書かれることは決してなかったのである」(山我哲雄訳)

 もっと言うなら、マーラーの〈愛のかたち〉そのものが、単純な恋愛ではなかったのである。錯綜した感情のもつれが作品に深みと陰影を与えているとすれば、アルマもまた、写譜以上の貢献をしたといえないだろうか。・・・・・・

ただ、「シューマンとクララの夫婦の絆が、クララの作曲願望によって妨げられたと考えたマーラーは、」という部分、根拠の拠り所となる出典は何なのでしょうか?

返信する
岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
世界はユダヤ中心に動いているようなものですね。
確かに天才肌の人間が多いようにも思いますし。

>きっと見事に吹かれることでしょうね。

そうでしょうね。ただし、昨晩は1箇所大きなミスがありました。しかしそれもライブならではなのでまったく気にはなりませんでしたが。

ところで、ご紹介のプログラム・エッセイも興味深いですね。
おっしゃるように、シューマンとクララの夫婦の絆ってクララが作曲しようがしまいが強固なものだったように僕も思います。青柳いづみこさんの一ご意見なんでしょうかね?

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む