
セザール・フランクにあっては、不断の信仰が音楽に献げられる。そしてすべてをとるか、とらぬかだ。この世のどんな権力も、彼が正当で必要とみた楽節を中断するように命じることはできなかった。いかに長かろうと、耐えなければならない。これこそ、誠実さがあらかじめ感じられない一切のすすり泣きを禁じる、欲得をはなれた夢想の、しるしである。
「セザール・フランク」
~平島正郎訳「ドビュッシー音楽論集 反好事家八分音符氏」(岩波文庫)P190-191
クロード・ドビュッシーのフランク論にはそうある。もちろん個人の見解とは言え、フランクの人となり、あるいは作品の位相を示す優れた小論だと思う。
フランクの音楽に通底するのは、すなわち信仰と誠実さだ。謙虚な人となりを表す彼の音楽ほど、人知れず、また顕示欲の薄いものはない。ドビュッシーはまた次のように言う。
フランクは、人生から借りうけるものを、ついには名をすてるまでにいたる謙遜な態度で、芸術にかえす。
~同上書P191
セザール・フランクの交響詩が、そのスタイルを発明したフランツ・リストのそれと違うのはまさにこの点だ。主張の薄い(?)、それでいて官能を忘れない、ただ無心の音楽が、物語の音による描写が、滾々と綴られるのである。
クリュイタンスの指揮する音楽には不思議な色香がある。それは、ドビュッシーとは違う、もちろんワーグナーとも異なる、墨絵のような色気である。同時に、確かにドビュッシーが一方で指摘するように、単純な、集中力に欠ける退屈さがある(じつはそれがまたフランクの粋なのだ)。
フランクには、時間についておどろくほど無頓着なところがある。退屈するということを、彼が知らないからである・・・彼がうまく〈はじめた〉ときは、聴くほうも安らかな気持でいられる。だが時として彼は、自分の言いたいことがなかなか見つけられなくなる。
(「SIM」誌1913年1月15日号)
~同上書P193-194
要するに完全無欠でないのである。その、あまりに人間的な、謙虚な、信仰心に裏打ちされた音楽こそがセザール・フランクその人なのである。中でも僕は、チッコリーニを独奏に据えた起伏に富む「鬼神」を好む。