頭は朦朧とし、気力も尽き果てて、目の前から例の見知らぬ男の姿を追い払うことができません。ぼくに懇願し、急き立て、性急に仕事を要求する男が絶えず見えるのです。ぼくも、作曲しているほうが休息しているときよりも疲れないので、仕事を続けています。そればかりか、もう何も気を遣いたくないのです。時折、ふと最後の鐘が鳴っているなと感じることがあります。まさに息も絶え絶えです。ぼくの才能を楽しむ前に、終わりが来てしまったのです。でも、人生は実にすばらしかったし、こんなにも幸運な前兆のもとでは、前途も開けていったことでしょう。でも、自分の命運を変えるわけにはいきません。
(1791年9月、宛名不明)
~高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P463
モーツァルトの宛名不明の、謎の手紙の一節である。
まるでもう一人の自分自身に、つまり本性に語り掛けるような迫真の内容に心が痛い。
彼はこの時点でもはや自身の命の尽きるのがまもなくだとわかっていたのかもしれない。時間が迫る中、モーツァルトは依頼のあった鎮魂曲を文字通り懸命に丹精込めて書き進めていった。
鮮烈な、いわゆるピリオド・スタイルによるミシェル・コルボの「レクイエム」。
音楽はどこまでも鋭角的であり、霊妙な力を醸すような響きに覆われる。しかし、何という現実感!! 生と死が直結する物語であることを想起し、モーツァルトの最期をまるで祝うかのように明るく、研ぎ澄ます。
音楽は決してもたれない。何事もなかったかのように、ただ無心に進行するのみ。そこにあるのは、時間とともに死滅に向かう生の儚さだ。もちろん死は終わりではない。命運を全うすれば、次なる生と直結する幸なる儀式だ。
僕は、2015年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンでのバッハの「ヨハネ受難曲」の名演奏を思った。聖なる儀式を、1枚壁を隔てた俗世間から覗き込むように見、そして、遠くそこから放たれる光彩とぼんやりとした音の色彩の美しさを堪能したあの幸せな時間を想起した。
オッフェルトリウムの光輝。そして、合唱が映えるサンクトゥス&ベネディクトゥスの香気と生命力。そして、終局に向かっていよいよ真摯に変化する精神の高揚よ。ミシェル・コルボの実演に触れる機会を、僕たちは永遠に失った。