ホロヴィッツ ムソルグスキー 組曲「展覧会の絵」(1948.4.2Live)ほか

子供たちが遊ぶ姿は、ロシアでもモンゴルでも、フランスでも同じだ。市場での女たちのお喋りだって、万国共通だろう。勿論、全てがロシアを描いているかどうかは判らないが、タイトルに使われた言語に注意を払いすぎるのはよくない。それよりも、対象と作曲者との距離の近さにおいて、あの作品は極めて典型的なロシアの音楽作品だということを忘れてはならない。ロシア人の特質として、自分を忘れて対象に没入することがあげられると思う。たとえば〈古城〉では、古い城に佇む吟遊詩人が描かれているけれど、そこで聞こえる音楽が美しくて悲しげなだけではなく、作曲者が感じている吟遊詩人の哀しみといったものが強く感じられる。それがロシア人の特質なんだ。〈ブィードロ〉も良い例だ。あれはただ単に牛車ではない。農民を客観視していることに耐え切れないムソルグスキーの共感がある。そこでは作曲者の客観が主観に代わっている。人ごととは思えない、何とかしなければいけない、と思うこと。それがロシア人の特質だ。ただ、楽譜にはそこまで書かれていない。演奏家としての自分が、それを楽譜から感じるだけだ。でも僕は、今言ったようなことを確信している。
(ウラディーミル・アシュケナージ)
一柳富美子著「ムソルグスキー 『展覧会の絵』の真実」(ユーラシア・ブックレット)P43-44

アシュケナージの言葉には説得力がある。あくまでピアニストとしての勝手な想像なのだけれど、彼は確信を持っている。このインタビューを初めて読んだとき、僕は(ある種)衝撃を受けた。勝手な解釈で、あるいは想像で音楽を聴くのはもちろん聴く人それぞれの自由なのだが、作曲家の真意を得て聴く場合とは「理解の深化」が明らかに違う。音楽の味わいがそもそも段違いだと思うのである。

僕は特別な、唯一無二であるホロヴィッツが自ら編曲した、例の壮絶な「展覧会の絵」を思った。管弦楽編曲版が醸すニュアンスも参考にしたあのピアノ版は、言語を絶する激しさと共に、内から湧き出る慈愛に満ちている。しかも、ムソルグスキーの主観同様、ホロヴィッツの客観も主観に代わっていて、いかにもたった今、その場で紡ぎ出したとしか思えない生々しさがある。そのことが最も顕著なのは、「カタコンブ」以降「キエフの大門」のクライマックスへと弾ける後半部だ。カーネギーホールでの実況録音。聴後の公衆の感動までが如実に伝わる録音だ。

・ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」(ホロヴィッツ編曲)(1948.4.2Live)
・リスト:ピアノ・ソナタロ短調S.178(1949.3.21Live)
ウラディーミル・ホロヴィッツ(ピアノ)

いとも容易く、そして見事に「歌われる」リストのロ短調ソナタ。強靭な打鍵から繰り出される劇的な音楽に唖然とするほど。ソナタ形式の単一楽章ではあるが、内部に多楽章の要素も兼ね備えたリスト屈指の名作を、全盛期のホロヴィッツは「歌う」。

広い意味で好きな音楽はと尋ねられたら、「歌う」音楽ということになりますね。わたしの思うには、シューベルト、モーツァルト、それにリストの音楽が、もっともよく『歌う」音楽のような気がします。ベートーヴェンの音楽もとても美しいのですが、もうすこし器楽的な音楽だと思います。わたしがピアノを弾くときに目指しているのは、ピアノで歌うことなんです。
(ウラディーミル・ホロヴィッツ)
~「音楽の友」1986年8月号

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