フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル フルトヴェングラー 交響曲第2番(1953.2.22Live)

構造的には、このモチーフは三度音程とその転回音程の六度で統一され、一つ置きに音符を辿ればそれぞれなだらかな上昇線と下降線が浮かび上がるような分散和音の音型である。その全体の和声はドミナント指向で、まあ、強いて言えばブラームスふうだが、何となく旋律聴音の書き取り用の課題曲といった感じもあり、何より独創性に欠ける。じっさい、レコードに針を下ろしてこの部分が耳に入った瞬間、落胆のあまりあとを聴くのを止めようかとさえ思った。ここには1時間あまりの長大な音の殿堂へ聴き手を誘導する雰囲気は、まったく皆無にひとしい。
(柴田南雄「主に交響曲第2番について」
「没後30年記念フルトヴェングラー—時空を超えた不滅の名指揮者」(音楽之友社)P55

何ともひどい言い草だが、確かにこの作品は彼の指揮の普遍的な神々しさに比して著しく魅力に欠ける。

ともかく、この第1楽章でいちばん著しいことは、主題の着想の貧弱さと、それを展開する段になってからの知性に満ちた雄弁さとの極端なアンバランスである。インヴェンションに欠ける主題の上にドイツ古典音楽の修辞法を正統的に駆使して、いわばえんえんとレトリックの技術を駆使する往古のローマの雄弁術もかくやと思わせる。
~同上書P56

「慈悲」とは文字通り慈しみであり、また悲しみすら受け入れんとする大きな心の器である。フルトヴェングラーは生涯作曲家を志したが、指揮者としてつとに有名になった。残念ながら作曲家フルトヴェングラーが残した作品の多くはインスピレーションに乏しい。しかし、僕が初めて彼の交響曲第2番を聴いて以来、久しぶりに耳にして思うのは、音楽の端々に(隅々にとは言えない)「慈悲」というものが宿るのがわかる。それは、まさに戦況危ういその時期に作曲の筆を進めていたからなのかどうなのか、天にも祈るような慈しみと、そしてまた悲しみの思念が刷り込まれているように感じるのである。そして同時に、フルトヴェングラーの自作自演には、その慈愛、慈悲というものが現実的に音化されており、古い録音を超えて、21世紀の今聴く者の心を鷲づかみにする。

・フルトヴェングラー:交響曲第2番ホ短調
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1953.2.22Live)

ウィーンは楽友協会大ホールでの実況録音。
どの瞬間もどこかで聴いたことのある音楽として耳に残る。
冗長な印象をやっぱり否めない第1楽章アッサイ・モデラートに対し、聴くべきは第3楽章ウン・ポコ・モデラートの前世紀的抒情か(相変わらず柴田氏の評は手厳しけれど)。あるいは、長い終楽章の似非の(?)雄渾さか。いかにも外へと拡がらんとする楽想に対して、閉じようとする意思が働かざるを得ない矛盾。
ここには人間フルトヴェングラーの苦悩が刻印されている。
これほど厳しい音楽が、艱難辛苦の音楽があろうか。

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