フィッシャー=ディースカウ マティス ベリー ゲッダ クレー指揮デュッセルドルフ響 シューマン 「ファウスト」からの情景(1981.4録音)

ロベルト・シューマンが、ゲーテの「ファウスト」第2部に触発され、10年近くをかけて完成した畢生の大作。第2部「ファウストの死」を中心に、そこから始まる第3部「ファウストの変容」に至る仄暗い生の熱がほとばしる瞬間のカタルシス。

だからこの地では 子供も壮年も老年も
危険に囲まれ 怠らぬ年月を送るだろう。
俺はそうした人間たちの営みを見
自由な大地の上に 自由な民とともに立ちたい。
その瞬間に向かってなら言ってもよかろう
留まれ お前はあまりに美しい! と。
俺の地上の日々の 生の軌跡も
その時は 永劫のうちに空しく消え去りはすまい—。
そうした高い幸福の予感のうちに
俺はいま最高の瞬間を享受するのだ。

ゲーテ/柴田翔訳「ファウスト 下」(講談社文芸文庫)P474-475

ゲーテはおそらく「理」を求めて「ファウスト」を描いたが、時期尚早にあり、それは幻に終わった。崩れ落ちるファウストを尻目にメフィストは次のように言う。

どんな快楽にも どんな幸福にも満足せず
次々と移り変わる姿を追って 挑み歩く男だったが
哀れなことには最後になって 何ともつまらぬ
空っぽの瞬間を わが手に握っておきたがった。
随分と俺にも手を焼かせたが
時間には逆らえず老いぼれて ついに砂の上で往生だ。
時計は止まった!

~同上書P475

意外にも悪魔メフィストは(ある意味)真理を得ていたのかもしれない。否、少なくともその本質はわかっていたように思われる。次は、シューマンが省略した、ゲーテの原作にはあるメフィストの言葉だ。ここには大いなる真実が浮かび上がるように僕は思う。

過ぎた? 馬鹿な言葉だ。
何で過ぎるのだ?
過ぎたも 初めから無いも 完全に同じことだ!
それでは われらが〈永遠の活動〉はどうなるのだ
造られたものを無へと帰する活動は?
「これにて事は過ぎたり!」—いったいどんな意味だね?
それならもともと無かったと同然で
その癖 結局は輪を描いて 有ると同じということになる。
むしろそれより俺の気にいるのは 永遠の空虚をいう奴なのだ。

~同上書P476

すべては輪廻という現実のうちにある幻想だと(永遠の真空に憧れた)悪魔メフィストは言うのか。僕たちができることはただ一つ、世界を淡く見ることだ。

・シューマン:「ファウスト」からの情景
ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ(ファウスト/マリア崇拝の博士、バリトン)
エディット・マティス(グレートヒェン/贖罪の女性のひとり、ソプラノ)
ワルター・ベリー(メフィストフェレス/悪霊/天使に似た教父、バス)
ニコライ・ゲッダ(アリエル/法悦の教父/テノールI、テノール)
バーバラ・ダニエルズ(憂愁、ソプラノ)
カーリ・レヴァース(困窮/ソプラノI、ソプラノ)
ハンナ・シュヴァルツ(マルテ/罪障/栄光の聖母/エジプトのマリア/アルト、アルト)
ノルマ・シャープ(罪深い女性/ソプラノII、ソプラノ)
イルゼ・グラマツキ(欠乏/サマリアの女性、アルト、アルト)
ハラルト・シュタム(瞑想の教父/バスIII、バス)
テルツ少年合唱団(ゲルハルト・シュミット=ガーデン合唱指揮)
デュッセルドルフ州立楽友協会合唱団(ハルトムート・シュミット合唱指揮)
ベルンハルト・クレー指揮デュッセルドルフ交響楽団(1981.4.2-9録音)

暗澹たる音調から浮き上がる、いかにもシューマンという情念こもる序曲から期待が高まる。ファウストを歌うフィッシャー=ディースカウの理知の佇まいが終始素晴らしい。何より第2部冒頭第4番「アリエル。夜明け」の幻想の美しさ。アリエルを歌うゲッダの官能、あるいは独唱と合唱が絡むシーンの神々しさよ。そしてまた、ファウストの死のシーンの激性と抒情!!

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