
ロベルト・シューマンが、ゲーテの「ファウスト」第2部に触発され、10年近くをかけて完成した畢生の大作。第2部「ファウストの死」を中心に、そこから始まる第3部「ファウストの変容」に至る仄暗い生の熱がほとばしる瞬間のカタルシス。
だからこの地では 子供も壮年も老年も
危険に囲まれ 怠らぬ年月を送るだろう。
俺はそうした人間たちの営みを見
自由な大地の上に 自由な民とともに立ちたい。
その瞬間に向かってなら言ってもよかろう
留まれ お前はあまりに美しい! と。
俺の地上の日々の 生の軌跡も
その時は 永劫のうちに空しく消え去りはすまい—。
そうした高い幸福の予感のうちに
俺はいま最高の瞬間を享受するのだ。
~ゲーテ/柴田翔訳「ファウスト 下」(講談社文芸文庫)P474-475
ゲーテはおそらく「理」を求めて「ファウスト」を描いたが、時期尚早にあり、それは幻に終わった。崩れ落ちるファウストを尻目にメフィストは次のように言う。
どんな快楽にも どんな幸福にも満足せず
次々と移り変わる姿を追って 挑み歩く男だったが
哀れなことには最後になって 何ともつまらぬ
空っぽの瞬間を わが手に握っておきたがった。
随分と俺にも手を焼かせたが
時間には逆らえず老いぼれて ついに砂の上で往生だ。
時計は止まった!
~同上書P475
意外にも悪魔メフィストは(ある意味)真理を得ていたのかもしれない。否、少なくともその本質はわかっていたように思われる。次は、シューマンが省略した、ゲーテの原作にはあるメフィストの言葉だ。ここには大いなる真実が浮かび上がるように僕は思う。
過ぎた? 馬鹿な言葉だ。
何で過ぎるのだ?
過ぎたも 初めから無いも 完全に同じことだ!
それでは われらが〈永遠の活動〉はどうなるのだ
造られたものを無へと帰する活動は?
「これにて事は過ぎたり!」—いったいどんな意味だね?
それならもともと無かったと同然で
その癖 結局は輪を描いて 有ると同じということになる。
むしろそれより俺の気にいるのは 永遠の空虚をいう奴なのだ。
~同上書P476
すべては輪廻という現実のうちにある幻想だと(永遠の真空に憧れた)悪魔メフィストは言うのか。僕たちができることはただ一つ、世界を淡く見ることだ。
暗澹たる音調から浮き上がる、いかにもシューマンという情念こもる序曲から期待が高まる。ファウストを歌うフィッシャー=ディースカウの理知の佇まいが終始素晴らしい。何より第2部冒頭第4番「アリエル。夜明け」の幻想の美しさ。アリエルを歌うゲッダの官能、あるいは独唱と合唱が絡むシーンの神々しさよ。そしてまた、ファウストの死のシーンの激性と抒情!!