恍惚のベートーヴェン・ナイト

njp_arming_101022.jpg新日本フィルの定期演奏会を訪れた。ラドゥ・ルプーが本来ソリストを務めることになっていたが、体調不良によるキャンセル帰国騒ぎで、つい先日紀尾井ホールでのベートーヴェン・ツィクルスを終えたばかりのペーター・レーゼルが代役として起用されての一夜。たまたま天野敦之氏とのコラボで、妻が六本木シンフォニーサロンにて「月と光と音と・・・~1/fのゆらぎによる癒し」を開催することになっていたので、六本木まで荷物運搬を手伝い、そのまま錦糸町まで足を延ばした。

開演20分ほど前に会場に到着し、音楽監督であるクリスティアン・アルミンク氏のプレ・トークを聞きながら静かに待つ。日本初演になるリームの作品を詳細に解説されていたが、残念ながらほとんどを聞きそびれた(こういう現代曲こそ、演奏者が事前に解説してくれると、より一層とっつきやすくなり、ありがたい)。

新日本フィルハーモニー交響楽団
トリフォニー・シリーズ
第468回定期演奏会「恍惚のベートーヴェン・ナイト」
2010年10月22日(金)19:15  すみだトリフォニーホール
クリスティアン・アルミンク指揮
ペーター・レーゼル(ピアノ)

新日本フィルの生音に触れるのはいつ以来だろう。ことによると朝比奈先生が亡くなって以来耳にしていないかも(と思ったら2年前にハーディングの指揮で聴いていた)。ちなみに、コンサート・マスターは懐かしの豊嶋泰嗣氏。

・リーム:変化2(2005)
結論からいう。今夜の白眉は実にこのリームの作品。まだ誰も聴いたことがない現代音楽にこそクリスティアン・アルミンクという音楽家の適性を見る。この曲そのものがエモーショナルというより、そこにエモーショナルを感じる指揮者の感性がよりエモーショナルなんだと僕には感じられた。オーケストラのテクニックも申し分なし。
「このような難曲でも聴き手に理解されることが素晴らしい。リーム自身も『私は情感に訴えかけ、聴衆の心に届く音楽を書いている』と言っていたが、この曲はエモーショナルなので、私はとても好きだ」~プログラム・ノートからアルミンクの言葉

・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58
さて問題のベートーヴェン。ホールの入りは7割か8割ほどだと思うが、もともとはルプーの第4番を聴きたくてチケットを入手していた方も多いはず。もちろんレーゼルに代わったことで急遽来場を決めた方もいらっしゃるだろうが、さてどんな演奏になるか期待は募る。第1楽章の最初のピアノの音から極めて美しい。彼は何と女性的な音楽を紡ぎ出すのだろう・・・。時に優しく、時に激昂し、感情を剥き出しにする。レーゼルのピアノはオーケストラと渾然一体となり、見事な調和を示す。これはひょっとして・・・。しかし、音楽が進むにつれ、多少のほころびを見せ始める。アルミンクに包容力が足りないのか、指揮者とソリストの呼吸の不釣合いが気になる。俄仕立ての感を否めず。おそらくレーゼルが主導権を握り、アルミンクがそれに追随するという形ならもう少しまとまったのだろうが、いかんせんアルミンクの主張が強過ぎる。頑張り過ぎなのだ。つながるためには呼吸を深くし、一にすることが大事だというが、そのあたりの準備不足が露呈した、レーゼルの戸惑いが見え隠れするそんな音楽作りだった。それにしても「恍惚のベートーヴェン・ナイト」というタイトルは大袈裟なり。

・アンコール~ベートーヴェン:6つのバガテル作品126~第6曲
ベートーヴェン晩年の小品集から最後の曲。レーゼルのソロは力強い。そしてしなやかだ。先の第4協奏曲といい、こういう音楽を聴かされると、楽聖が世界の調和を真に願っていたことが確かに理解できる。

休憩を挟んで後半。

・ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調作品93
ベートーヴェンの第6番や第8番という音楽は難曲だ。おそらく指揮者の力量がそのまま曲作りに反映されるのだろう、途轍もなく感動させられる超名演の時もあれば、感動の「か」の字もない凡演の時もある。いつ何時「超」のつく名演に出会えるかは誰にもわからないので、こればかりはその場にできるだけ身を置くようにしチャンスを待つしかない。残念ながら今日は後者。「地上の楽園」を希求するベートーヴェンの「心」を表現するだけの力にまだまだ欠けるのか、そもそもこの楽曲にそんな想いが託されていることに指揮者が気づいていないのか・・・、それはわからないが。


6 COMMENTS

雅之

おはようございます。
私はほんの一時期、千葉の船橋や東京の田端に住んでいましたので、当時すみだトリフォニーでアルミンク指揮新日フィルは頻繁に聴いており、懐かしく読みました。プレ・トークでのアルミンクの解説は、私も毎回勉強になっていました。
でも、アルミンクの音楽性は、ベートーヴェンやワーグナーなどドイツの古典やロマン派では、どっしりとした重心の低いところが希薄で、個人的に欲求不満になることが多々ありましたので、今回もそのケースかなあと想像しました。
だいたい今回は、明らかに4番のPコンをルプーが弾くことをメインに想定していたシンプルなプログラムですよね。アルミンクの指揮も美音で聴かせたであろうルプーの音楽性によりマッチしているのではないかなあ・・・。その意味では、ルプーの代役は、ドイツ的精神性の部分で勝負するレーゼルよりも、音そのものの美しさで競うアシュケナージなんかのほうが合っていたのではないですかね。
まあ、どちらにしても、3年くらい前、都響でオピッツがブラームスの協奏曲第1番を弾いた時なんかもそうでしたが、ピアノファンなんていう連中は、お目当てのピアニストの演奏だけ聴いたら、休憩後のオケのメイン曲を聴かず、とっとと帰る、指揮者やオケに対し失礼な連中がじつに多いものですが(オピッツの時は後半ハルサイ!)、そんな場面に遭遇するのはいつも苦痛だし悲しいです。
ところで、ベートーヴェンの第8交響曲も、「エロイカ」から繋がった、フリーメンソンとの関連性を疑えるいくつかの事実を発見しましたが、まだ自信がないのでもう少し煮詰めてから、いずれまた報告します。自分で演奏に参加した時にはまったくそんなこと考えていませんでしたが・・・。
それにしても、スコアを深読みすると、吃驚する発見が多いです。昨夜、音楽現代の11月号
http://www.amazon.co.jp/%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E7%8F%BE%E4%BB%A3-2010%E5%B9%B4-11%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B0044TIM4O/ref=sr_1_9?s=books&ie=UTF8&qid=1287780766&sr=1-9
を読んでいたら、インバル&都響によるブルックナーの交響曲第8番の第1稿についての批判も交えたじつに示唆に富んだ文章があり、初めて知る「目から鱗」の指摘が多く、大変勉強になりました。入手され全文お読みになることをおススメします。
・・・・・・このエンディングと同様、第1稿を振り慣れた経験の蓄積が感じられるのはアダージョ楽章だ。特に、頂点を刻印する「3拍+3拍」の打楽器群を強打させているのは正解だと思う。ブルックナーが自身の意思で打楽器群を書き込んだ〈8番〉の第1稿は、「それぞれの意思で3回ずつ打つ」という発想自体は、純粋にオーケストラ的に見れば稚拙で、第2稿のように頂点で1回ずつ鳴らすほうが音響的にも理に叶っている。しかし、この曲の場合、例えば、ヴァイオリンのソロを3人で弾くように指定してあることに象徴されるように「3位一体=神」という、3という数へのキリスト教的な拘りこそが重要。そうした意味からすると旧盤の控え目な叩かせ方よりは今回の都響盤を支持したい(D・R・デイヴィスのように、ここをシンバル、トライアングル抜きにしてしまうのは、音響的な効果だけではなく、意味論的にも誤りだと思う)。・・・・・・音楽現代 11月号 今月聴いたCD&DVD ブルックナー〈8番〉1887年・第1稿 インバル&東京都響 金子建志 130~131ページ
やっぱりブルックナーの8番は、第1稿こそが真髄でしたか!!
認識不足でした。
http://classic.opus-3.net/blog/cat29/8/

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雅之

訂正
金子さんの文章からの引用部分の内、
×ブルックナーが自身の意思で
○ブルックナーが自身の意志で
×「それぞれの意思で3回ずつ打つ」という発想
○「それぞれの頂点で3回ずつ打つ」という発想
失礼いたしました。
いずれにせよ、原文に当たられることをおススメします。

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畑山千恵子

お目にかかれてうれしく思います。私は、紀尾井ホールで聴いた時より、レーゼルのピアノには、あれ、というものがありました。急ごしらえでしたから、これは致し方ないでしょう。たた、あれだけ充実した演奏が聴けただけでもよかったと言えます。
紀尾井ホールでのコンツェルト、ソナタはCDとして発売されるそうで、私も買う予定です。買ったら、オピッツと聴き比べをすることにしています。ちなみに、3月、オピッツがトリフォニーホールでコンツェルト全曲演奏ツィクルスをやった時、お客の入りが悪く、もったいないものでした。残念です。
交響曲第8番も好演でした。日本のオーケストラも充実した音楽を聴かせるようになったことを実感できました。

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雅之

>おそらく指揮者の力量がそのまま曲作りに反映されるのだろう、途轍もなく感動させられる超名演の時もあれば、感動の「か」の字もない凡演の時もある。いつ何時「超」のつく名演に出会えるかは誰にもわからないので、こればかりはその場にできるだけ身を置くようにしチャンスを待つしかない。残念ながら今日は後者。「地上の楽園」を希求するベートーヴェンの「心」を表現するだけの力にまだまだ欠けるのか、そもそもこの楽曲にそんな想いが託されていることに指揮者が気づいていないのか・・・、それはわからないが。
あっ、それと蛇足ですが、私がコアなクラシックファンの言葉にいつも強い違和感を覚える一番の原因は、こういう部分だと思いました。クラシック音楽は好きだけど、聴くだけのコアなクラシック音楽ファンを好きになれない原因というか、「客だから何を言ってもいい」という傲慢さが不快というか・・・。
ビジネスの世界では、「成績が悪いのは他人ではなく自分の責任」が鉄則。
音楽でも、「音楽の良さを理解できないのは自分の理解力のなさが原因」、いかなる場合でも、そういう謙虚さも大切だと痛感し、自分自身の言動にも反省する今日このごろです。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>アルミンクの音楽性は、ベートーヴェンやワーグナーなどドイツの古典やロマン派では、どっしりとした重心の低いところが希薄
>「音楽の良さを理解できないのは自分の理解力のなさが原因」、いかなる場合でも、そういう謙虚さも大切
ご指摘の通りですね。こういうのは聴き手の好き嫌いの問題ですから、おっしゃるように(「客だから何を言ってもいい」という傲慢さが不快というか・・・)について反省します。ただ、聴いた直後に上手いとは思いましたが、感動はなかったんですよね。謙虚でないといえばそれまでですが。
あと、昨日も途中で席を立つ人が多かったですねぇ。第4協奏曲の第1楽章が終わってすぐに帰る人もいたほどです。それと、これは僕の勝手な印象ですが、終演後も拍手はそこらにしてあっという間に帰宅の途につく人が吃驚するほど多かったです。少なくとも僕はどんな時でもオケが引けるまで席を立つことはしないものですから・・・。
>やっぱりブルックナーの8番は、第1稿こそが真髄でしたか!!
金子建志の考察は毎々参考になります。「音楽現代」は7,8年前まで愛読しておりましたが、いつの間にか読まなくなりました。買って読んでみます。ご紹介ありがとうございます。
クラシック音楽がキリスト教徒と切っても切り離せないものだということを再確認し、そういう観点で聴くとまたいろいろ発見があるのでしょうね。勉強になります。
ベートーヴェンの8番とフリーメイスンの関係、起が熟した折にぜひともご教示ください。よろしくお願いします。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
おはようございます。
こちらこそお会いできてよかったです。
昨日もお話に出ましたように、紀尾井の時の方がより充実していたんでしょうね。聴いてみたかったです。
>3月、オピッツがトリフォニーホールでコンツェルト全曲演奏ツィクルスをやった時、お客の入りが悪く、もったいないものでした。
そうですね。最近はコンサートそのものが多すぎるせいか、そういうことが目立ちますね。昨日のコンサートも、ルプーだったら満員だったんでしょうか・・・?
今後ともよろしくお願いいたします。

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