山本邦山 菊地雅章 ゲーリー・ピーコック 村上寛 「銀界」(1970.10.15&20録音)

東と西の融合。半世紀上も前の「実験」は、時間を超え、実に新鮮だ。
ジャズとも現代音楽とも表現しかねるパフォーマンスだが、少なくとも山本邦山の尺八は、確実に西洋の音楽に溶け込んでいて、まったく違和感がない。否、むしろ、サキソフォンならぬ尺八の音が、何と縦横に飛翔し、リズム隊を見事に牽引していることか!

西洋音楽と日本の楽器との融合に数多挑戦しながらも生涯西洋音楽の方法にこだわった武満徹は、インドネシア音楽の「魂の高揚感」についてかつて興味深いことを語っている。

ジャワ島やバリ島で聴いたガムランの、あの空の高みにまで昇るような音の光の房は何なのだろうか、と思う。私たちの音楽のどの部分にあのような眩いかがやきを見ることができるだろうか。陽光の木魂のように響くガムランの数々の銅鑼を聴きながら、私は邦楽器の音について考えていた。私が感じたことを率直に表わせば、ガムランの響きの明るさとその官能性は、『神』を持つ民族のものであり、日本音楽の響きは『神』をもたない民族のものなのではないか、ということであった。
「樹の鏡、草原の鏡」
立花隆「武満徹・音楽創造への旅」(文藝春秋)P540-541

武満徹の見解は確かに素晴らしいと思う。しかし、僕の考えとは少々異なる。ガムラン音楽は「神」を持つ民族のものだという意見はその通りだ。しかし、日本音楽の響きは、「神」を「持たない」のでなく、自ずと「神」と同化する民族のそれだと僕は思うのである。つまり、インドネシア民族は「神」はあくまで外にある対象であり、日本民族の「神」は外になく、自身を含めたすべてに宿る、文字通り「八百万」だということだ(それゆえに、内なる光をとらえることができなければ、邦楽に真の官能=性を感じることはできない)。

その点、山本邦山の尺八は、菊地雅章のピアノと共に実に官能的だ(同時に静的でもある)。それは、ゲーリー・ピーコックのベース、そして村上寛のドラムスとも驚くほど素直に同期する。

「銀界」
・序
・銀界
・竜安寺の石庭
・驟雨
・沢之瀬
・終
山本邦山(尺八)
菊地雅章(ピアノ)
ゲーリー・ピーコック(ベース)
村上寛(ドラムス)(1970.10.15&20録音)

邦山は呼吸を通じて内観する。神韻縹緲たる尺八の音色は思った以上に明朗で、とっつき易い。白眉は「竜安寺の石庭」だろう。この人は武満徹と何かしらの関係があるのだろうか(勉強不足で残念ながらそこまで知らない)。武満と通じ、武満の方法を(より明確に)知らず知らずのうちに習得してしまっているかのような錯覚さえ僕は覚える。

武満は次のように言う。

ぼくは、いつでも音楽をつくるときにインスパイアされるのは日本の庭なのです。で、夢窓国師の生きかたなどとても好きだし崇拝しています。ぼくの音楽で音たちは、庭に置かれている石とか、それから草や木、それと砂とかと同じです。草や木は石に比べていろいろな変化をしていくわけです。時間的な、秋になり、冬になったりする変化があって。そういう、たえず変化していく部分とそれから、人が歩いて視点が移ることで、そのもの自体は変わらないのだけれど、変化する石とか、そういう変化を音楽的にどう書き表わすか、それがとてもだいじなのです。だから、いつも固定されたひとつの結末だけを目ざす音楽は、どうもおもしろくないんです。
(イサム・ノグチとの対談)
~同上書P555

即興と変化と。予想のつかない結末を迎える音楽こそが真の音楽だと武満は言うのだろう。その点では、ジャズはまさにそういう音楽だ。そして、そもそも尺八という楽器がそういう楽器なのだ。山本邦山がジャズメンを相手に目指したものは即興的であり、また縦横に変化しながら東西が融合できる、そういう音楽の形だったのだろうと思う。
それにしても「沢之瀬」における尺八の旋律の、何とポピュラーな響きだろう。

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