まるで有機体のように蠢き、呼吸するフルトヴェングラーのワーグナー。
抜粋ながら、1937年6月のロンドンはコヴェントガーデンでの楽劇「神々の黄昏」(5月26日の「ワルキューレ」に続く)は、第二次世界大戦前の欧州の緊張感(?)を如実に表すような暗澹たる空気に満ちており、実に刺激的だ。
古典主義の時代、ベートーヴェンやモーツァルトがレガートの旋律を書くとき、スラーをかけるのは一小節までだった。しかしワーグナーは旋律全体にスラーをかける。・・・旋律はつねに全体で理解されねばならないというのが、私の持論である。全体で把握して初めて、部分に分けることが可能になるのであって、その逆はない。それ以外の方法、たとえば弱拍だとか、二小節ないし四小節単位のフレーズといった考え方では、旋律に取り組むことができない。まず全体を眺めなければならず、ワーグナーも同じ理由でスラーを指定しているのである。
~ジョン・アードイン著/藤井留美訳「フルトヴェングラー グレート・レコーディングズ」(音楽之友社)P265-266
フルトヴェングラーは全体観を大事にした。しかもその全体観はそもそもワーグナーが音楽創造の原点にしているものゆえ譲りようがない点だと断言するのである。フルトヴェングラーのワーグナーが録音からでありながらほとんど生き物のように響くのにはそういう訳があったのかも。
それはワーグナーの成熟した思考の・・・表れである。彼は従来の慣習を断ち切り、全体だけを念頭に置いた。レガートが欲しいところでは、旋律全体にスラーをかける。細かいフレーズ分けをどうするかということは、まったく眼中になかった。しかし残念ながらヴァイオリンの弓は長さに限りがあるので、どこかで弓を返さなくてはならないし、歌手は—木管楽器奏者も—息を吸わねばならない。そのため、本来あってはならない切れ目をどうしても作る必要がある。・・・指揮者が到達すべき最高にして最終的な目標は、レガートの旋律が・・・本当にレガートに聞こえるように、つまり呼吸している生命が本当に流れていくように演奏することである。
~同上書P266
ワーグナーの考えた無限旋律とは、途切れのない流れを獲得した旋律であり、滔々と流れる大河のような音楽だ。しかし、彼の想像通りの音楽を奏するには、人間の技術の限界を超えなければならなかった。しかし、そうなると逆に機械的な、無機質の音楽に陥ることがワーグナーもわかっていたのだろう。あるいは、フルトヴェングラーは人間の技術の限界を超える寸前のフレージングを、呼吸法を編み出したようなものだ。
ウォルター・レッグによる85年前の画期的録音。この時代にしては鑑賞に十分耐えうる音質に感謝。
プロローグは、3人のノルンの後の管弦楽パート「ジークフリートのラインへの旅」から収録されている。このオーケストラのデモーニッシュな(?)音色を聴くだけでフルトヴェングラーのそれだとわかる(珍しく室内楽的な響きに感じられるのは録音のせいか?)。やはりクライマックスたる第3幕第3場でのフラグスタートの歌唱が素晴らしいが、甘美な弦がうねり、(曇りがちな録音だが)ティンパニの怒号が響く管弦楽の後奏シーンの官能的な音響にあらためてフルトヴェングラーの天才を思う(何と生々しいのだろう)。
彼の真の予言は、《善でも黄金でもみごとな華美でもなく、欺瞞的な同盟の不明朗な契約でもない》のである。—それは、『神々のたそがれ』の終局で燃える地上の支配の砦から立ち昇る天上のメロディーである。音響でほかのドイツの生命詩、世界詩の結びの語と同じことを告げているのである。
永遠に女性なるもの
われらをひきてゆかしむる。
(1937年11月「リヒャルト・ワーグナーと『ニーベルングの指環』)
~トーマス・マン/小塚敏夫訳「ワーグナーと現代」(第2版)(みすず書房)P187