バーンスタイン指揮ウィーン・フィル マーラー 交響曲第5番(1987.9Live)

ようやく耳に馴染んできたのだと思う。
否、ついに「わかった」と言った方が良いのか。
マーラーの交響曲第5番嬰ハ短調はずっと鬼門だった。録音にせよ実演にせよ心底感動したことが正直なかった。

最初の印象は、支離滅裂。それがすべてで一向に全体像が掴めない。残念ながら僕はまったく理解できなかった。

いうまでもなく、本質的に、マーラーの音楽はすべてマーラー自身に関することである—それが矛盾に関することだということだけは明らかである。次のような矛盾について考えていただきたい。創造者マーラー対演奏家マーラー。ユダヤ人対キリスト教徒。確信者対懐疑論者。ナイーヴな人間対ソフィスティケートされた人間。田舎者のボヘミア人対ウィーンの上流社交人。ファウスト的哲学者対東洋的神秘主義者。決してオペラを書かなかったオペラ的な交響作曲家。このような矛盾撞着から、マーラーの音楽に巣くっている果しない一連のアンチテーゼ—殷(いん)から楊(朱)に至る全名簿—が生まれるのである。
(レナード・バーンスタイン/三浦淳史訳「マーラーの時代がきた」
「音楽の手帖 マーラー」(青土社)P94

唐突だけれど、バーンスタインがマーラーの裡に発見していたものは、高村光太郎が智恵子の中に見たものと同じだったのだろうか。あの、精神を病んでしまって、ついに廃人と化さざる(?)を得なかった智恵子のあどけない心そのものと。

音楽がベートーヴェンの如く「闘争から勝利へ」という命題の裡にあることは明らかだった。しかし、一向に落ち着かない楽想と、コラージュ的に拡大していく音調にいつも途中で匙を投げ出していた。なるほど、先のバーンスタインの論も10代の僕には重荷だった。

50代のある日、世界が相対の中あり、常に矛盾の中にあるのだと腑に落ちたとき、ほんの少し僕はマーラーを理解した。彼の創造する下世話な音楽も高尚な旋律も、すべては彼自身に関することであり、彼の作品はすべて彼個人の極めて個人的な葛藤を表しているのだとわかったとき、僕はついに交響曲第5番に愛着を覚えた。

・マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調(1902)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1987.9Live)

フランクフルト・アム・マインはアルテ・オーパーでの録音。第1楽章「葬送行進曲」から決して派手でない、むしろ地味な響きを感じさせるところがバーンスタインの方法だ。苦悩に満ちる暗澹たる激しい楽想は、第2楽章に引き継がれる(バーンスタインは思念を抑え、抑制の中で音楽を自由に飛翔させる)。そして、まるで黄泉の世界を描くかのような(天国か?それとも地獄か?)第3楽章スケルツォを鏡にして(名演だ)、後半2つの楽章はほとんど現世の愉悦を髣髴とさせる。そう、第4楽章アダージェットだけが妙に浮いた印象を感じていた僕に、この音楽は終楽章とあくまでセットなんだということをバーンスタインは教えてくれた。アダージェットは前奏でありながら、終楽章と合わせ矛盾撞着の最たるケースだったのである。愛の静かな官能と愛の空騒ぎの同居。いかにも人間的だ。

マーラーは、あからさまに、中心から分裂している。しかも、彼の音楽では、どんな内容も認識でき、解釈されるという不思議な結果を伴ない、相いれない対立する要素もまた同様である。他の作曲家でこのようなことがいえるだろうか?
~同上書P96

バーンスタインの解釈は、音楽に統一をもたらす。
どうしても分裂的にしかとらえることができなかった音楽が全体観をもって今や僕の耳に語りかけてくる。とても不思議なのだけれど。

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