マティス フィッシャー=ディースカウ リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管 J.S.バッハ カンタータ第68番「かくのごとく神は世を愛したまえり」ほか(1974&75録音)

だがバッハには目的があった。「音楽」という目的が。ライプツィヒでバッハを待っていた「音楽」は、ケーテンでは決して可能になりえなかった種類の音楽だった。おそらくバッハはそれもあって、ライプツィヒへの転職を決意したのではないだろうか。
ルター派の礼拝で演奏される教会音楽の作曲。それこそバッハが、ライプツィヒに赴任した当初、情熱を燃やし尽くした対象だったのである。

加藤浩子著「バッハへの旅―その生涯と由縁の街を巡る」(東京書籍)P242

音盤棚から何気に取り出したカール・リヒターによるバッハのカンタータ集。
信仰心は持てど、特にキリスト教に帰依するわけではない僕にはバッハのカンタータは随分重荷だったし、それは今もそうだ。しかし、音楽に漲る得も言われぬ力には昔から畏怖の念を抱いていた。不思議と心が洗われ、身も心も驚くほど癒されるのである。

眼に対する耳の人間学的差異はイデオロギーとしての音楽の歴史的役割に適応する。耳が受動的であるのに対し、眼はまぶたに覆われていて、それを開かねばならない。耳は最初から開いていて、いろいろな刺激に対して注意深く応ずるというより、それから身を護らねばならない。耳の積極性、その注意力はおそらく遅く現れたもので、自我の強さが増大する傾向に一致していた点があるだろうが、こんどは自我の遅く現れた諸特質が最も速やかに再び姿を消していきつつあり、音楽を綜合する能力、つまり音楽を一つの美的な意味統一体として統覚する能力の衰弱はこのような受動性への退行と揆を一にしている。
テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント/高辻知義・渡辺健訳「音楽社会学序説」(平凡社)P108

アドルノは耳ほど曖昧なものはないと言う。しかし、逆に言うならば、聴覚ほど臨機応変に何でも受容できる器官はない。ただ純粋に傾聴すること。バッハによって僕たちの心は自ずと開かれるだろう。

ヨハン・セバスティアン・バッハ:
・カンタータ第68番「かくのごとく神は世を愛したまえり」BWV68(1974.5&1975.1録音)
エディット・マティス(ソプラノ)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バス)
・カンタータ第175番「彼はおのれの羊らの名を呼びて」BWV175(1974.2&1975.1録音)
アンナ・レイノルズ(アルト)
ペーター・シュライアー(テノール)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バス)
・カンタータ第129番「主に讃美あれ」BWV129(1974.1, 3&1975.1録音)
エディット・マティス(ソプラノ)
アンナ・レイノルズ(アルト)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バス)
カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団

復活したイエスが天に昇ったことを祝う昇天祭のためのカンタータ集から1枚。マティスの清澄な歌が、そして、フィッシャー=ディースカウのいかにも知性溢れる声が見事だ。ここでのリヒターはできるだけ思念を横に置こうとする。純粋に祈りだけを音に乗せ、イエス・キリストの昇天を祝うのである。厳粛な響きに頭を垂れる。

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