King Crimson Discipline (1981)

1972年のバリ島旅行での武満徹。
武満はガムラン音楽から衝撃的な影響を受けたらしい。
ガムランは今生きている音楽で、毎日、新しい音楽として生まれてくるのだと。

ちがうんです。西洋の古典でも、演奏のたびにちがうってことがありますよね。同じ曲でも、演奏家がちがえばぜんぜんちがってくる。同じ譜面を弾いても、ちがう演奏になる。そういうちがいはあるけど、そういうちがいとはぜんぜんちがうんです。西洋音楽の場合の、「同じ曲」「同じ譜面」にあたるものがない。音楽はそのように記録され符号化された、ある固定的な音のシーケンスを演奏するということではなく、日々に新しく生まれてくるものなんです。だから、時がちがえばちがう音楽になるし、所をかえればちがう音楽になる。西洋音楽の考えでは、東京でやる音楽も、パリでやる音楽、ニューヨークでやる音楽も、それが同じ曲であるかぎり、多少のニュアンスのちがいはあっても、同じでしょう。しかし、ガムランの場合は村がちがえばちがうガムランになる。同じ村でも部落がちがえばちがう。同じ部落でも、昨日と今日ではちがうんです。ぜんぜんちがうんだけど、ちがいをこえたある同一性みたいなものもある。音楽というのは、そもそも何なんだという本質的な部分で考えこまされました。
立花隆「武満徹・音楽創造への旅」(文藝春秋)P720

音楽に限らず、ここには人間活動の根源に直結する問題が秘められているように思う。
西洋と東洋の考え方の違いなどという単純なものではないだろう。一つ言えるとするなら、再現性を重視した西洋音楽のあり方は、それが宗教音楽であれポピュラー音楽であれ、消費を前提にしているということだ。ガムラン音楽に限らず、武満が後に訪れたオーストラリア原住民であるアボリジニの音楽などは、そもそも消費を前提にしたものでなく、日々の祈りを体現したものゆえ(本質的な同一性が担保されれば)毎日違って良いのである。
これらのエピソードに僕は衝撃を受けた。

ちなみに、武満徹が初めてバリ島を訪れた1972年は、ロバート・フリップが新たなキング・クリムゾンを組織し、即興とヘヴィメタルを武器にロック・シーンに更なる革新をもたらした年だ。そのクリムゾンもわずか2年ほどで解散、その後7年の時間を経て再結成されたが、かつてのクリムゾン・フリークたちからブーイングを浴びせられるほど様相をまったく異にしたキング・クリムゾンであった。

ロバート・フリップの意識は破壊と創造を繰り返し、常に進化、深化していた(それはたぶん今もそうだ)。そのことは、今振り返ってみるとわかる。1981年に突如世界に姿を現した復活キング・クリムゾンは、(おそらくガムラン音楽などから影響を受けた)ポリリズムを主体に同じく即興とメタルを武器に、しかしよりソリッドな響きをもって僕たちを感化しようとした。

同一性を保ちつつも時と場所が変われば変化するガムラン的な新たな音楽の種子を西洋的フレームの中に閉じ込め、再現性を担保したことで、復活キング・クリムゾンの音楽は花開き、実をつけたのである(時間はかかったけれど)。

・King Crimson:Discipline (1981)

Personnel
Adrian Belew (electric guitar, guitar synthesizer, lead vocals)
Robert Fripp (electric guitar, guitar synthesizer, devices (Frippertronics))
Tony Levin (Chapman Stick, bass guitar, backing vocals)
Bill Bruford (drums, slit drum, percussion)

おそらく40年後の今にこそ人々の感性を刺激するアルバムだ。
“Elephant Talk”から”Discipline”まで全7曲、どれもが4人の驚異的なテクニックによって支えられた他を冠絶するものだと僕は思う。

ガムラン音楽の素晴らしさは、大きな生命圏へ向って飛翔する不可視の壮麗な響きの渦であり、その中心に、これも不可視の、世界の部分としての人間が在るということだ。
~同上書P724

いわゆる現代音楽へのアンチテーゼとしてのポピュラー音楽であり、ロック・ミュージック。
現代に消費される音楽の多くには世界の部分としての人間が確かに欠けている中で、時空を超えて残るポピュラー音楽(中でもキング・クリムゾン)には確かに「不可視の、世界の部分としての人間が常に在る」。

アボリジニの音楽に触れた衝撃を武満は次のように語る。

音楽としていいとか悪いとかいうレベルじゃないんですね。もっとそれ以前のものです。しかしだからこそ、ぼくはショックを受けました。つまりね、西洋音楽の歴史は分化の歴史だと思うんですよ。どんどん分化していった結果、全体が見えないところまできてしまった。その極端な形が現代音楽ですよ。現代音楽くらい極端に分化されたものはない。作曲家がいて、演奏者がいて、それもシンフォニーなんかだと楽器の数だけ演奏者がいて、作曲家は高度なテクニックを要求するからもう作曲家自身では演奏できなくて、演奏者は完全に専門的に特化している。指揮者がいて、歌が入れば作詞家がいて、みんな自分の専門のことだけやっている。ところがあそこには、未分化の総体としての音楽があり、踊りがある。それは、人間の挙動とか儀式とかお祭りというのと同じなんです。そこにいる人間すべての肉体と音楽がいっしょなんです。
~同上書P730

「ディシプリン」は、文字通り人間の挙動とか儀式とかお祭りと同じだ。
キング・クリムゾンの場合、強いて文句をつけるなら明確な機能美と、それに基づくゆらぎのない正確な、否、正確過ぎる再現性だろうか。

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