念願の「地平線のドーリア」、そして「弧(アーク)」
武満徹の音楽は、実演に触れない限りその真意をとらえるのは難しい。
僕は演奏中、ずっと夢の中にいるような錯覚に陥っていた。
立花隆著「武満徹 音楽創造の旅」(文藝春秋)をじっくり読み進む中で、武満の音楽の途方もない拡がりと真意・神髄を知るにつけ、彼の音楽にもっとたくさん触れてみたいと思っていた矢先の今回。とても素晴らしい、充実の2時間だった。
作品ごとに編成はもちろんのこと、楽器の配置が異なる独自の方法こそ武満の音響世界の最大の肝。どこからそういう空間イメージが創出するのか、こればっかりはやはり音盤や録音では体感不可能だ。
「地平線のドーリア」は、旋法をたよりに描かれた偶然性の音楽。冒頭から音の途切れる、否、四方八方に広がる(?)前衛的な響きがあまりに美しい。
なにせいちばん大きな財産ですよ、トナリティというのは。だけどぼくは、平均律のトナリティ以外にもいろいろな、人間にとっての音楽的な財産というのはいっぱいあると思うんです。(中略)ぐあいが悪いのは、西洋の平均律が絶対的な価値基準としてあるという考え方です。ぼくはそれが疑問なんですよ。
~立花隆「武満徹・音楽創造への旅」(文藝春秋)P507
短い時間の中で、これだけの空間的拡がりを創出し、既存のものに左右されない新たな音を生み出す才能。これこそ武満徹の革命である。
続く「ア・ウェイ・ア・ローンII」は、始まりの終わりであり、また終わりの始まりという「円環」の宇宙観の発現こそ武満徹が生涯にわたり目指したもので、1981年のこの作品をしてある種完成を遂げたものだと思われる。文字通りたった一人の旅を表す「死」の顕現。死は終わりでなく生の始まりであり、生もまた始まりでなく死の終わりだとするいわば輪廻の中に閉じ込められた魂の苦悩を武満は描くのか。弦楽器群が何と冷たい音を連呼することだろう。さらに、出世作「弦楽のためのレクイエム」の、同じく始まりも終わりも定かでない性格を持つ作品だといいながら、音楽は極めて純粋に響いた。水面に一滴の水が落ち、水の輪が永遠に拡がるようなうねりを僕は感じた。名作の名演奏だ。
武満徹 弧(アーク)
2022年3月2日(水)19時開演
東京オペラシティコンサートホール:タケミツメモリアル
高橋アキ(ピアノ)
カーチュン・ウォン指揮東京フィルハーモニー交響楽団
武満 徹:
・地平線のドーリア(1966)
・ア・ウェイ・ア・ローンII(1981)
・弦楽のためのレクイエム(1957)
休憩
・弧(アーク)(1963-66/76)
第1部 I. パイル II. ソリチュード III. ユア・ラヴ・アンド・ザ・クロッシング
休憩
第2部 IV.テクスチュアズ V. リフレクション VI. コーダ—シャル・ビギン・フロム・ジ・エンド
後半はコンサートの目玉である、滅多に演奏されることのない「弧(アーク)」全曲。もうこれは静謐なハーモニーから阿鼻叫喚のカオスに至る宇宙のすべてを表すような作品であり、とても素晴らしいパフォーマンスだった。立花さんが最も好きな武満作品の一つだという「弧(アーク)」こそ実演に触れない限り絶対にわからない音楽だと思う。
「弧(アーク)」は、はじめから終りまで、実験的な音づくりの集成のような曲であり、聞くたびに、武満が作り出すさまざまな音のエネルギーと生命あるもののごとき音のうごめき、瞬間瞬間の音の多彩な相貌変化のきらめきに圧倒される思いがする。実をいうと、「弧(アーク)」は、私が最も好きな武満の作品の一つで、私はこの曲を聞くことで、音ならびに音楽、あるいは作曲という概念について根本的な考え直しを迫られた思いがした記憶がある。作曲というよりは、ある音群が作り出され、それが提示されることで、これほど人間の感性が異様な衝撃を受けるとは思ってもみなかった。武満は音楽という枠そのものを、何かとてつもない地点にまで押し広げたのではないだろうか、と思った。
~同上書P535
これほど的を射た、「弧(アーク)」の革新と大きさを示した評はないだろう。この文章を読んで「弧(アーク)」を聴きたいとそもそも僕は思ったのだ。時間の経過とともに一層激しく、そして集中力を要する音楽に僕は唸った。特に、高橋アキが徐に独奏楽器群にキューを出して進められる第2部第4曲「テクスチュアズ」などは本当に魔法のような音楽のように僕には思われた。
ちなみに、武満徹はジョン・ケージの影響を受けている。それもかなり多義的だといわれる。
「現代の分子生物学によると、私達の人格はそれらによって決定されるわけですね。で、私は即座に『易経』だ、と思ったんです。遺伝暗号表はまさに『易経』のように構成されているんですよ。表は64の要素からなり、三連文字が組み合わさって6つの文字からなる一組を作っているわけです。つまり私達の人格はチャンス・オペレーションによって生じるのです。—音楽と全く同じように」
ジョン・ケージが、偶然性を音楽に取り入れるようになった背景には、人間の為すことなどたかがしれている、あるがままの自然に遠く及ばない、人間の芸術的創作などというものは児戯に類するものだという認識があるのである。あるがままの自然は偶然に満ち満ちている。偶然がこの驚くべき世界を作った。ならば、音楽も偶然に作らしめよ、ということである。
~同上書P411
僕は膝を打った。果たして武満の音楽は、図形楽譜など偶然性を取り込みながら、彼ならではの音楽に昇華されている。終演後、歓声の中、珍しく指揮者のカーチュン・ウォンが観客に向け言葉を発した。武満徹の音楽はいつも静かに始まり、静かに終わる。今夜は何より高橋アキさんと共演できたことが嬉しかった。今後もずっと武満作品とともに歩んでいきたいという賞賛の言葉に彼の確かな人間性を見た気がした。未だ余韻冷めやらず。
[…] 何年か前、武満徹の「弧(アーク)」を聴きに出かけたが、ステージには高橋アキの姿もあった。終演後にカーチュン・ウォンが客席に向かって武満の音楽を絶賛し、そして高橋アキと […]